お便り、ご質問の部屋

ここは今までにいただいたお便り、ご質問のコーナーです

いただいたメールはすべて実名でしたが許諾をいただいていませんので仮名にしてあります。
実名を出してもよろしければメールをいただければ光栄の至りです。


2004.11
.20

こんにちは
突然失礼いたしますが、旧海軍の重巡「羽黒」の戦友会の事務局の方の連絡先を、どなたかご存知の方がいらして差し支えなければお教えいただけませんでしょうか。
小生お尋ねしたいことがございまして、なにとぞよろしくお願い申し上げます。  

福島県 堀 龍一   (氏名掲載で構いません。)



2004.10
.25

須磨様 私の父は、戦争体験者で熊本県の人吉航空隊にいたそうです。当時は、銀河、月光、 紫電などがあったようです。
教育?を受けているうちに横須賀海兵団に移動になり終戦を迎えたそうです。
そんなこともあり、父の影響で戦闘機が大好きです。
サイトを探しているうちに、こ のホームページを見ました。 ところでモールス信号のことですが、私のうちにモースル信号、手旗信号の資料があ りましたので、お送りします。 参考にして下さい。

手旗・モールス信号資料はこちら

川崎市M様


2004.10.24


2004,7.7 匿名 ななし子さんへのお答え
小浜湾で沈没したのは駆逐艦”榎”です。
当時私は小濱中学の二年生。敗戦間近には連合艦隊の軍艦が 7,8隻小浜湾に待避してきていて、半島に沿って停泊していました。
確か巡洋艦が1,2隻、残りは駆逐艦だったと思います。 軍艦には山から木の枝を切り出して船の上から覆い、小島が点々と 並んだようにみえました。1,2週間もたつと青い島が一斉に茶色にな ってしまい、ちょっとうらがなしく感じました。
そのうちに米軍が軍艦めがけて機銃掃射を始め、負傷した海軍の人 たちが中学校の武道場がいっぱいになるほどになりました。 そのうち、B29が飛んできました。巡洋艦の主砲が火を噴きましたが 敵ははるかに高く悠々と飛んでいってしまいました。
そのとき機雷を投 下したのではないでしょうか。 機雷に触れて沈没した瞬間は知りませんが、機雷を除去するために 爆破した瞬間は見ました。丁度写真によくでているように太い水柱が 上がっていました。翌日、海面に爆発の影響で死んだ魚が浮いていた のを覚えています。 沈んだ場所は、丁度小浜湾の中央あたりでした。ですから浜辺から 2qmほど沖合でしょうか。 機雷に当たってからは、海が浅いために艦尾を海底につけて艦首が 海面にでていました。ボートを漕いで”榎”までいったことがありましたが 何人かの海軍の軍人が残っていました。
一言二言話をしましたが、引 き返しました。
質問された方は匿名を希望されていますが、もっと広くお調べになった らいかがですか。
「小浜市史」もありますが、太平洋戦争のところはお粗末な記事で参 考になりません。 とりあえず、知っていることだけをお返事します。

F様


2004.10.7

突然で失礼いたします。

私の父が旧海軍の中尉だった頃のことが、最近知りたくなり、 なにから調べればよいのかわからないままこちらのHPに来ました。 終戦の年に舞鶴におりましたので、その当時のことをどのようにして、 調べればよいか、アドバイスをお願いいたします。
お忙しいところ恐縮ですがよろしくお願いいたします。

大阪府 武田 (旧姓 浅奥)  掲載可


2004.10.7

初めて投稿させて頂きます。
私は戦艦大和が建造された、広島県呉市在住の63才男性です。 以前より大和に関心を持っており、資料集めを行っていますが、 主砲弾の斉射記録の詳しいデータがどうしても手に入りません。
実戦に於いて主砲が火を噴いたのは、
@昭和19年6月20日マリアナ沖で、
A19年10月24日シブヤン海で、
B翌25日サマール島沖で、
C11月16日ブルネイ港沖で
D昭和20年4月7日沖縄特攻で と、計5回あるようですが、それぞれ何発斉射されたか?
更にできれば第1、第2、第3砲塔で各何発斉射されたか? を知りたく思っています。
我こそは「大和マニア」と自認されている方、 是非とも教えて頂きたく、宜しくお願い致します。

Kさん


2004.9.12

49歳の男性です。
父は満州で現地徴用され、終戦の日の朝人間地雷としてソ連軍戦車への肉弾特攻命令を受け、指揮官と別れの水盃を交わし、いざ出撃という時に終戦、戦闘停止の 報に接し、満州の密林を彷徨する事八日、死を覚悟で軍用道路に出てソ連軍に見つかり、シベリア抑留となった人でした。
海軍の各艦長の手記を読んで、ただ涙するだけでなく、艦や部下を最後まで助けようとして果せずに、総員退艦を命じた後に、艦と運命をともにした責任感の重さに心打たれました。
このサイトの指揮官の方たちは、何回となく本を読んで知っている方々ですが、何度読んでも胸が詰まる思いです。
私の住んでいるアパートのすぐ前には、航空自衛隊の基地が広がっており、かって零戦が試験飛行した飛行場です。
臨戦態勢をとっている部隊も展開しており、演習で定期時間以外に航空機が離陸すると、飛び起きてTVを点けます。
平和の中で忘れがちな戦争と言う非条理な行為が起きる事のないことを祈っております。

Mより


2004.7.8

 私は31歳の サラリーマンです。
 最近、国の歴史 世界の歴史に興味を持ち、いろいろと書籍を読みあさっております。
 さて、私たちの世代はまさにGHQや準戦勝国が捏造した歴史観を教育されてきたのですが、それによって日本の歴史の連続性が絶たれてしまうような現状を非常に憂いております。 しかし友達に私の知った事を話すと、理解してくれて今では祝日にはみな日章旗を掲げております。
また 友達のオーストラリア人がいるのですが、最近では本当に日本の文化に敬意を表し、自ら勉強し、お互いに話して日本について理解を深めようとしています。彼を通じてアングロサクソンの考え方や歴史を学びましたが、それによって日本人が普通に感じている感情や礼儀などは本当に日本独自のもので概ね神道からきたものであると気付きました。
白人文化圏において相手を尊敬し、認めるのは自分に対してメリットがないかぎりはしないようですし、なぜ相手に無条件に優位性を認めるのか?といった感じです。
その背景には日照時間が短く、痩せた土地で生活をしてきたヨーロッパの民の自己存続の為の常識なのかもしれません。自己存続が危ぶまれたり、不都合が生じた場合、相手の生命を奪い、財産を強奪してもそれは相手が弱いからしょうがないし、弱者が子孫繁栄をするより強者が子孫繁栄することが自らの種を存続させてゆく上で大切な事であると考えたからでしょう。"汝殺すべからず 盗むべからず"なんて言われなくとも、日本人にとっては至極当たり前ですよね?
その背景には恵まれた環境があり、分け合うことが種の存続において大切であると考えたからでしょう。
私自身そのような国柄に大変誇りを持っておりますし、外国人にも教えて行きたいと考えております。
先日、前述したオーストラリア人を連れて松陰神社に参ってまいりましたが、とても喜んでくれてさっそく梅花に万字の吉田家の家紋のステッカーを車に貼っていましたよ。
長々と綴って申し訳ありません。それではまた....


Oさん


2004.7.7

突然の質問申し訳ございません。
福井県小浜市の 小浜湾での軍艦(駆逐艦?)がグラマンによって、 沈没させられたとの事で、そのときの 沈没状況と詳しい場所を教えて欲しいのですが。
もし、ご存知でしたら、何卒よろしくお願い致します。

匿名 ななし子


2004.6.27

昭和19年4月1日に土浦海軍航空隊へ甲種予科練14期前期として入隊しました。
18歳でした。4月から8月まで土浦にいました。
その後青森の三沢航空隊に転隊しました。
今でも忘れもしない、兵籍番号横志飛25316 どうして今まで覚えているのか不思議です。
飛行機に乗るつもりで入隊したのに、練習機は1機も無くグライダーには何回か乗りました。あまり上手に飛びすぎて、戦友から「こんなとこまで飛ばしやがって」と小言を言われたこともありましたが、一年半を予科練で過ごしたことが懐かしく思はれます。但し、総員バッタを食らったときは痛かったです。
海軍に入ったのに軍艦を一度も見たことがありませんでした。
この次はまた送ります。

甲14期さん


2004.6.25

この文見て感動しました;;
誇り高き英雄たちは早死にするものですね

Hさん


2004.6.22

佐久間艇長の件

次の文献が詳しいと思います。
正伝 佐久間艇長 法本義弘編 国民社 東京都西神田2−9

Fさん                              


2004.6.13

質問ということで、メールを送らせて頂きました。
私は、今俳優をやっているものですが、今度、20歳前後の特 攻隊の兵隊として、映画に出ることが決まりました。
そこで役 作りのために、いろいろな資料を探っているのですが、当時の 若者、特に二十歳そこそこの学生たちの私生活についての資料 が見つかりません。
私と同い年ぐらいの彼等が、どういう教育 を受けていて、趣味などは何で、どれくらいのことが許されて いて、同様な性格の子がいて、どのような生活を送っていたの か等、彼らの身辺に迫る情報がほしいのです。
そこで、もし、そういったことに関して、何かわかることがご ざいましたら、教えていただきたいのですが、如何でしょうか ?
お返事をお待ちしております。
よろしくお願いいたします。

Aさん


2004.6.11

Sと申します。
4月30日のSさんの三和義勇少将についてのご質問にお答えいたします。
明治32年 4月26日 
岡山市弓之町に父新之助の三男として生まれる、                両兄三姉あり
大正 6年 3月末   大阪府立北野中学(現北野高校)卒業
大正 6年 8月31日 海軍兵学校生徒(48期)
大正15年12月 1日 アメリカ大使館付武官補佐官(武官は山本五十六)
昭和 4年 3月29日 帰国
昭和 4年 5月10日 成婚
昭和 8年 5月20日 海軍大学卒業(成績優秀につき長剣を賜う)31期
昭和 8年12月 1日 赤城飛行隊長(少佐)
昭和 9年12月15日 軍令部部員
昭和12年 3月13日 連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀(旗艦陸奥)
昭和13年12月26日 横須賀航空隊飛行長兼教官(中佐) 昭和16年10月10日 霞ヶ浦航空隊副長兼教頭
昭和16年11月13日 連合艦隊作戦参謀(大佐)(旗艦戦艦長門)
昭和17年12月 1日 第11航空艦隊(ラバウル)参謀
昭和18年 5月28日 山本五十六元帥葬儀係
昭和18年 7月 1日 第一航空艦隊参謀長
昭和19年 8月 2日 テニアン島にて戦死享年45歳(少将昇格)
尚、体格は小柄で身長160センチ足らず、性格は温厚であったとのこと。
また、山本五十六と仕事を共にすることが多く、山本五十六を語る現在の著書の多くが 戦死直前に書き残した「山本元帥の思い出」から引用されています。
特に新潮文庫 阿川弘之氏の「山本五十六」の(上、下巻)には多く引用されています。
実はSさんと私は遠縁にあたると思います、更に詳しくお答えできますのでメールをください。

Sさん



2004.6.2

Sさんへ、承前、追伸。
三和少將を識るには 阿川弘之「山本五十六」が一番です。 中尉甲板士官として 山本五十六霞ヶ浦海軍航空隊副長との出会いに始まって、「水風呂と茄子の辛煮」の話、武官として転出する山本を惜しんで横浜から乗船した天洋丸に編隊で飛来して上空から爆撃演習を仕掛けた話。 
山本五十六駐米海軍武官の下で 後任補佐官として華盛頓へ赴任したのも 山本武官の推輓によるものでしょう。 
山本を語るに三和ぬきでは語れず 三和を語れば必ず山本の話に行き当たります。 
海軍兵學校第四十八期恩賜短剣、海軍大學校甲種第三十一期恩賜長剣の俊秀は 文字通り山本の秘蔵っ子です。
第一航空艦隊参謀長として玉砕したテニアンの写真は 私のホーム・ページ「テニアンの落日」にふんだんに掲載してあります。
一昨年のテニアンへの旅は 私の三和少將への追悼追善旅行でした。 
合掌。
「山本五十六」は新潮社から文庫本が出てゐます。 
是非ご一読下さい。

神奈川縣鎌倉市  渡邉 龍一 (氏名掲載可)

2004.6.2

2004/04/30 投稿のSさんへ。
時間が大分経過してをりますし 高名な三和義勇海軍少將の事 すでに多数 ご回答に接した事かと拝察致します。
私のホーム・ページ http://www2u.biglobe.ne.jp/~taro/ntf.html  にて三和参謀の写真をご覧いただけます。
また http://www2u.biglobe.ne.jp/~taro/sub5.bun.html  には 略歴の記載がありますし、拙文の随所に 三和少將のエピソードが 引用されてゐます。
ご長男 三和義彦 様は 長年 産經新聞で ご健筆を揮われた後 現在は 関東學院大學で教鞭を執ってをられます。
詳しくは 神奈川縣立横須賀高校同窓会ホーム・ページ http://www.hoyu-kai.com/index_main.htm
ここから「ようこそ同窓生」002三和義彦 を開いて下さい。
因みに小生の大學の級友の夫人が三和さんの従妹という関係でご厚願ってをります。
特にお識りになりたいこと 私でご回答出来ることなれば メールを頂ければ幸甚です。

神奈川縣鎌倉市 渡邉 龍一 (実名記載可)


2004.5.4

大西瀧治郎について全文の掲載を希望いたします、、、ちなみに大西中将は艦長のご経験はなかったと思います

大西中将の訓示/昭和19年10月20日 敷島隊員への挨拶

日本はまさに危機である。 しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。 むろん自分のような長官でもない。 それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。 従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。 皆の成功を祈る。 皆は既に神であるから、世俗的な欲望は無いだろうが、もし有るとすれば、それは自分の体当りが成功したかどうかであろう。 皆は永い眠りにつくのであるから、それを知ることは出来ないであろう。 我々もその結果を皆に知らせることは出来ない。 自分は皆の努力を最後まで見届けて、上聞に達するようにしよう。 この点については皆安心してくれ。 しっかり頼む。

遺書

特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす 次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり  隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ  諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ

独白

わが声価は棺を覆うて定まらず。 百年の後、また知己なからんとす

辞世

これでよし 百万年の仮寝かな

門司副官の回想/大西中将の敷島隊員への挨拶を聞いて

チグハグな感じが無く純一な雰囲気だったのは、長官が自分は生き残って、特攻隊員だけを死なせる気持ちが無かったからに違いない。 はっきりした言葉には出さなかったが、それは私にも判ったし、搭乗員にはもっと敏感に伝わったようである。 命ずる方と、命じられる方に、気持ちのズレが無かった。

神戸市Tさん


2004.5.1

久保と申します。(実名表示可) 堀さんから問合わせの、給油艦「石廊」乗組員の遺族をお捜しの件についてです。
厚生労働省の「社会・援護局」に問合わせてみてはいかがでしょうか。
ここは戦没者の遺骨収集や、遺族に対するサービスを行っている(厚生労働省のホームページを見ました)ので、戦没者の情報を持っていると思います。

下の堀様のご質問に対しての回答 久保様



2004.4.30

初めてメールします。
私の母方の祖母の父親の弟が、海軍三和義勇(?)だと聞いています。 どのような人物だったのか、全然分かりません。
分かる範囲で教えていただけませんでしょうか? 私が、祖母に教えられたのは
1、海軍学校主席卒業
2、山本元帥の参謀
3、第一航空隊参謀長でした。
残念ながら、山岡荘八『小説太平洋戦争』の中には登場しませんでした。 直接血はつながっていませんが、是非教えてください。
ついでに、祖父岩本卓司のことで知っていることがあれば教えてください。 ちなみに祖母は、旧姓三和マチ子です。 帝大卒の岩本卓司と結婚しました。 又、同岩本卓司については、主計(?)であったと聞いています。
宜しくお願いします。

Sさん



2004.4.19


前略
 お忙しい中恐縮ですがお知恵を拝借致したく御願い申し上げます。
 最近お世話になりました方で三重県の86歳のおじいさんなのですが、戦友のご遺族を探してらっしゃるのだそうです。  小生も気軽にお手伝いを申し出たのですがこれがなかなか難しいものなのですね。
  このおじいさんは旧海軍の輸送船(油)の「石廊」の元機関兵で、同船は昭和19年3月末のパラオ大空襲で戦没いたしました。
 その際助かった乗組員のうち機関兵ではこのおじいさんぐらいのものなのだそうです。
 そこでこのおじいさんはかつての機関科の戦友の最後をその遺族に語って伝えてあげたいのだそうです。
  しかしこのフネの生き残った方からして少なく、ましてや戦後ほぼ60年、その気持ちだけでなかなか光が見えてきません。
 勿論ご遺族の中には却ってそっとしておいて欲しいという方々もいらっしゃるかも知れません。
 しかしそうは思っても、是非とも一人ぐらいは見つけてあげられたらと思っております。
 このおじいさんにとっては「戦争」の終わりがそこで始めてくるのかもしれません。
 さてこの輸送船「石廊」は調べたところによりますと第四艦隊の所属のようでして、そうなりますと「母港」はかつてのトラック諸島(?)となるのでしょうか。
 かつての所属鎮守府のあったところの市役所にでもお手紙をし事情を伝えれば何か分かるかも、と淡い期待を持っておりましたが・・・。
 ちなみに広島の財団法人呉海軍墓地顕彰保存会の方にお尋ねしましたところ、残念ながら向こうで把握されている関連する情報はなしとのことでした。
 以上 何か端緒を開くものでもなんでも結構です、ご存知でらっしゃいましたら是非ともご教示の程御願いいたします。

福島県  堀 龍 一      
追伸 このお手紙が貴ホームページに名前入りで載ってしまっても小生としては構いませんです。


2004.4.12

突然ですが、祖母がずっと会いたがっている人がいます。
その人は、終戦当時、舞鶴の海軍の宿舎で暮らしていました。
祖母も同じところで生活しており、とても仲が良かったそうです。
終戦のあわただしさでお互い住所も交換できず別れたそうです。
祖母の名は、中川 友栄 石川県金沢市に住んでいます。
一番上の娘の名前は、千里(ちさと)といいます。
祖父は、中川 清 海軍の軍人でした。
探している人は、山際さんといいます。 滋賀の方で、当事で男の子が二人いらっしゃったそうです。
手がかりが少なく、どうやって捜したらよいかわかりませんが、90歳 の祖母のために何とか捜したいと思っています。
見当違いのところに便りを送っているとは思うのですが、何か手がかりがあればと思い出してみました。

Sさん


2004.3.3

はじめてメールします。
私は昭和30年代生まれの3児の父です。
小学生の子供たちに戦争の話をしていて、明 治開国以来の日本の戦争について子供向けに書いた本を読ませようと思い、探してみ ると、漫画以外では全く市販されていないことに気がつきました。
私が小学校の頃は 子供向けの本でかなりの数を読んだ記憶がありましたが、いつのまにか子供向けの戦 争に関する本は、原爆・空襲・慰安婦だけになってしまったようです。
ついでに探し てみると、平安時代から戦国時代までの合戦に関する子供向けの本すらほとんど出版 されていません。
戦後の思想偏向は戦後が一番過剰で、その後穏やかになってきたよ うに考えていましたが、この考え方は全くの誤りであるようです。
少なくとも、私の 小学生時代(昭和40年代前半)には子供向けの歴史や戦争関係書籍がたくさん市販され ていました。
これが私の誤解かもしれないと、探し回っていたところ、このサイトを 見つけましたので、質問させていただきます。
なにか情報があれば教えてください。 また、子供向けの歴史書を扱っている古本屋さんをご存じでしたら、よろしくお願い いたします。 =============================================
子供に昔何があったかを偏り無く教えたいと思っている父親より、

Oさん


2004.2.22

私の父親は、343航空隊剣部隊の副班長をしていたと思われる、海軍士官学校出身(兵学校72期 )のKと言います。
ホームページを見ていると、なんとなくメールを送りたくなりました。
私自身、大学生時代は、選挙の度に、源田実氏の応援活動をしていました。
私の父は、関西地区の秘書をしておりました。
口癖は、日本のため、世の中のためです、いまの政治家のなかに、政治屋が多くなっているように様に思われるのは、 私だけでしょうか?
終戦後、皇統護持作戦に帯同し、九州五ヶの庄、や人吉に天皇陛下の隠れご在所を確保すべく 山にこっもていた、人間です。
その後、下野し民間会社に就職し、いまだ健在です。
少しでも、完成した、日本を見たうえで死にたいと、何時も考えて、今の世の中に、期待を抱いている父を見ているのが 気の毒に思います。   

Iさん


2004.1.14

私は、戦争のことに興味がありますが、今現在、昔と比べ技術も発達し平和な世 界になって来ていると思います。
戦争を体験した方々にお話を聞きに行くと皆様 は口々にこう言うのです。「戦争をしている時は毎日空襲の音におびえ、防空壕 の中で過ごしていた。」
「せんそうは、絶対にやってはいけない事なのだ。」と ・・・。
今の暮らしでは、考えられないほどの貧しい暮らしだと言うこと、戦争 は絶対にしてはいけない事だと改めて身に感じました。
ですが、最近イラクとア メリカで、戦争がありました。
世界で一番短かったとはいえ、私は戦争をするイ ラクとアメリカがどうしても許せないません。
戦争中は、何にもの人が犠牲にな り私が、笑って話している間も人が1人死んでいると思うと怖くてたまりません でした。
こんな私は変でしょうか?

 

Cさん


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