お便り、ご質問の部屋

ここは今までにいただいたお便り、ご質問のコーナーです

なおこのご質問に意見がありましたらメールをいただければ幸いです

2000.11/29

ちょうど昨日11/26、70代の男性に会って大和の話が出ましたので、その時の事お話します。
その方は子供の頃からずっと一緒に遊んでいた、ふたつ上の友達、飯島豊治(千葉出身)さんが大和に乗って沖縄特攻で戦死されたのだそうです。
飯島豊治さんは18年6月横須賀海兵団に志願され、いつから大和に乗られたのかは聞きもらしましたが、それまでは艦載機の整備兵だったそうです。
沖縄特攻時は飛行機は1機も乗せなかったそうだから整備兵としての任務はなく、弾薬手として乗り込まれたそうです。
一度生還者の副長だった方に会った事があり、そして大和に関する本はいっぱい買ってずーっと読んで来たのだそうです。
子供の頃の友達の戦死を一生心に留めて、本が出るたびに買って読んでる姿を想像すると何とも言えません。
八杉さんや三笠さんの事も話しておきました。
何か情報がありましたらお知らせしますと言って住所聞いてお別れしました。
合掌

K-Miekoさん


2000.11/23

私は戦後生まれの人間です。
男ですので子供のころよくゼロ戦や戦大和のプラモデルをよく作りました。
なぜってかっこいいから!!それに血と汗と涙が通っているようなきがして!!?
もちろん私は戦後生まれなので戦争といってもピンときません。
おそそらく体験者に聞いても理解できないでしょう。
私は、よく本やビデオの戦争ものを読んだり見たりしますがどうもかっこいいが前面に出てしまうようです。
テレビ朝日の大和捜索は私も見ました。
テレビを見てとてもむなしく思いました。
大和がかわいそうに思えました。亡くなられた乗組員の方々も!!アメリカの魚雷にせんたいをひきさかれ爆弾にめちゃくちゃにされ水深400Mに沈んでいる姿はなんとも哀れに思えて!!
こんな風に思うのも大和の歴史を知っているからでしょう。
もし大和が沖縄ヘ無事に着いていたとして、任務を達成できたでしょうか??
やはりアメリカの魚雷や爆弾に船体をえぐられたであろうし、もし沖縄特功作戦がなかったとして敗戦まで生き残ったとしても戦利品としてアメリカが本国へ持って帰ったでしょう。
テレビ放送の中で、乗組員の方が書いた手記が、朗読されました。思いつきの作戦は、いたずらに装備を消耗し、人命を消耗させるだけだ。
こんな馬鹿な作戦をやらせる連合艦隊の上層部にわからせるために俺たちがその先陣を切ろうじゃないか!!!
出撃の前日真剣に話し合い殴り合って激論を交わしたそうです。
結局大和は沖縄へ向けて出撃し結局撃沈され結局何にもならなかった。
彼ら大和の乗組員は、アメリ力に一子報いがために出撃して死んでいったが無駄死にとなったわけである。
中にはこの戦は負けだとか沖縄へいっても途中で沈められるときずいている人もいたのでは!?
大和ならびになくなられた乗組員の方が我々に問い掛けていることは何でしょう??
その答えはわかったようでわかりません。
永遠に答えは出ないかも??
【大和は何のために沈んでいったのでしょう??乗組員の方々は何のために大和とともに死んでそして沈んでいったのでしょう??】
、、、、、大和及び亡くなられた英霊の方々、心よりご冥福をお祈りします。

Kさん


2000.11/22

拝啓

餓鬼の時分からの軍艦好きで,暫くは遠ざかっていたのですが, 『高松宮日記』が刊行されたのを機としまして焼けぼっくいに火がつきました。

海軍に関しましてのHPを大変興味深く拝見させて頂きました。 私は福岡の某パチンコ屋にて釘曲げを生業に致しております。
証券会社には色々言いたい事もあるのですが,実際に御勤めの方の 御話を読ませて頂きますと,やはり皆様も御苦労してある様ですね。
これからも宜しくお願い致します。

拝具
海軍とポンコツ英国車が好きなH(1958年型)でした。


2000.11/18

初めまして、三重県で教師をしているものです。
突然のメールで失礼します。

私は戦後の生まれで戦争体験はありませんが、私の名前にまつわることで戦争に関す ることがあります。少し聞いて下さい。

私の父の兄にあたる人(私の伯父)は水兵だったそうです。
山下ラインの「三霜丸」(s19年2月22日撃沈)という船に乗っていて、南洋で 爆撃にあい戦死しました。母親(私の祖母)はとても悲しみ、私の父に男の子が産ま れたらどうか死んだ敬光の名前を付けて欲しいと頼んだそうです。
それで私には、この戦死した「敬光」という名前が付けられました。
祖母は、まだ小さかった私に「敬光よ、もし国がまたお前をとりに来てもぜったいに わたさへん。床の下に入れて隠したる。ご飯もちゃんと運んだるよってに心配せんで ええぞ。」と言いました。
まだまだ小さかった私にはこのことが我が子を失った母親の悲しみとは分かりません でした。祖母は、国が悪いとかそういうことは一度も言いませんでしたが、二度と同 じ悲しみは味わわないという強い決意がこの言葉にはありました。
私は教師という仕事に就いてからなおさら祖母の言葉の重みが感じられ、自分が教え ている子ども達には、戦争の事実を正しく伝えて、戦争というものがどんなに悲惨で 悲しみと憎しみしか生まないものであるということを理解させたいと思っています。

今回突然のメールを差し上げたのは、下のモールス信号について教えていただけない かと思ってメールしました。
実は「敬光」は海軍の兵士だったそうです。
戦死した「敬光」が戦場から送ってきた 写真とかが私の教育資料として保存してあるのですが、この写真の中にモールス信号 が書かれているものが一つあります。
なにが書いてあるのか、ずっと気になっていま した。幸い貴ホームページの中のモールス信号というのを見つけたので早速照らし合 わせて読みとろうと試みましたがどうも変な言葉になります。
これは特別に意味のな い言葉なのかも知れません。
でもそれでも良いですからこれが何と書いてあるのか読 みとっていただけないでしょうか。
・・・−・
−・
・−・
・−−−−
−・・
・−・−・
−−・−

伯父は、多くの人がそうであったように遺体が見つかったわけでもなく、戦死したと いう知らせが届いただけでした。
もしかしたらどこかで生きていてはくれないかとは かない希望が今でもあります。

突然ですがよろしくお願いします。 
三重県 Nさん
 


2000.11/15

初めてメール致します。
神奈川県在住のSと申します。
海軍に関心があり、いつも楽しく拝見しています。
佐久間艇長のご質問を拝見しました。大した資料ではないのですが、 近藤出版、日本史小百科28 海軍 なる本の116頁に簡潔に載っていました ので抜粋します。

「沈みしまま」の第六号潜水艦
日本海軍が初めて潜水艇を保有したのは、明治38年(1905)10月1日で、米国か ら購入した五隻のホーランド型潜水艇を横須賀海軍工廠で完成し、第一潜水隊が 編成されたときである。このホーランド型は、米人ジョン・ホーランドが1870年 の第一号艇以来改良を重ね1900年ごろ第九号艇を完成した単殼式の潜水艦で、米 国を始め、第一次世界大戦前広く世界各国で採用された。続いてホーランドの設 計図により神戸の川崎造船所が苦心して二隻のホーランドを完成した。
それが第 六潜水艦および第七潜水艦であるが、第六潜水艦は、明治43年4月15日、訓練中 事故の衝撃を超え、佐久間勉艇長以下の立派な死に方が海軍部内だけでなく、広 く国民の感動を呼び、日本潜水艦乗りの良き伝統となった。
先ずその状況につい て説明する。
同艦は排水量水上57屯、水中63屯、主機械300馬力ガソリン機関1 基、速力水上8節、水中4節。航続力は水中4節で12浬、水上8節で184浬。兵装は 45糎魚雷発射管1。
従って何よりも水中運動力の強化が当時の潜水艦乗りの訓練 目標であった。
4月15日、佐久間艇長の第六潜水艇は広島県新湊沖でガソリン機 械を運転して航行する方法で、一名半潜航とも呼び、後年のシュノーケル航法の 先駆である。
ところが過って過度に潜入して通風筒から浸水した。直ちに全員浸 水防止、浮上に努めたが成功せず沈没した。翌16日、阿多島の南東約1浬、水深 18米のところで発見し、艦体を水面近くまで引揚げ、17日艦内を調査した。
当 時、外国では沈没した潜水艇の乗員が先を争って脱出しようとした事例が伝えら れ、この場合もこの点に懸念がもたれていたのであるが、乗員はすべてその持場 を守り従容として最期を遂げていた。
さらに佐久間艇長が死の直前までしたため た遺書が発見され、関係者を感激させただけでなく国民の同情と賞讃の的となっ た。
この壮烈な殉職は、潜水艦乗員が最後まで持ち場を守り最善を尽くすという 伝統を残したのである。
なお軍歌「佐久間艇長」はこの遭難状況をよく描写して いるので付録十三に掲げる。
付録十三
佐久間艇長
詩 不詳
曲 不詳
一、花は散りても香を残し 人は死しても名を残す
  天っ晴れ佐久間艇長は 日本男子の好亀鑑(こうきかん)
二、時は四月の十五日 艇長部員を引率し
  呉沖遠く乗り出(いだ)船は第六潜水艦
三、沈みしままに浮かばずと 悲報天下につたわりて
  眉をひそめる同胞(はらから)の 驚き憂いいくばくぞ
四、間もなく所在(ありか)を探りえて 引き上げ鉄扉(てつぴ)を打ち破り
  見ればいたましあな悲し 呼べど答えぬ十四人
五、司令塔上厳然と 指揮せる儘(まま)に艇長は
  従容自若(しょうようじじゃく)死につきし最後の雄々しさ勇ましさ
六、これを始めに部下諸員 少しも乱るるところなく
  息絶ゆまでも我が任務 守りし様(さま)ぞ知られける
七、艇長遺書して我が部下の 遺族に雨露(うろ)の君恩を
  こい奉りし一筆に 感泣せざる人やある
八、その外呼吸のせまるまで 手帳に記せし数個条は
  只君の為国の為 赤誠吐露余すなし
九、弾丸とびくる戦場に たおるるのみが勇ならず
  壮絶悲絶のこの忠死 聞きてはだふも立ちぬぺし
十、艇長生地は福井県 海軍大尉名は勉
  勅して位階を進めらる 枯骨に花の誉れあり

遺書や潜水艇の写真が載った古い雑誌もありますが、ご希望ならば画像ファイル かコピーなどでお送りできます。
もっときちんとした資料が別に存在するとは思いますが、少しでも参考になれば と思い立ち、ご連絡させていただきました。

ついでに最近、経験した海軍ネタをひとつ。
10月下旬に海上自衛隊の観艦式が行われましたが、その事前訓練の 乗艦券をかつての恩師に差し上げたところ、お礼の電話をいただきました。
「いやあ、非常に楽しかったよ。実は僕は軍艦に乗るのは子供の頃 戦艦山城に乗せてもらって以来なんだよ。同級生のオヤジが山城の 艦長をしていてね。艦橋に連れていってもらったり、艦長室でお茶を ごちそうになったりしたことがあったんだ。」
「なんて仰有る方ですか?」
「南雲さん。南雲忠一大佐。」
あわてて提督総覧を調べたところ、南雲忠一大将の項で昭和9年11月15日 山城艦長とあり翌10年11月15日 第一水戦司令官とありましたので、 昭和9〜10年頃の話と考えられます。
ちなみにその券を差し上げた恩師のお父様は陸軍軍医総監でした。

神奈川県Sさん


2000.11/13

 初めてメールを出させていただきます。Yといいます。
 さて,おたずねなのですが,佐久間艇長の話です。
昔の教科書にも掲載されていた 有名な方です。
日本軍人として,自分の乗る潜水艦が沈没しますが,死ぬ瞬間まで部 下と共に職務を全うし全世界から賞賛された人物です。
 で,その佐久間艇長の本がどこかにいってしまい今私の手元にありません。
それで もしよろしかったら,佐久間艇長の詳しいお話が紹介された本,またはエピソードや 沈没した時に乗艦していた潜水艦の写真と名前があればぜひお知らせ願いたいのです が,いかがでしょうか。
 ぜひよろしくお願いいたします。

Yさん


2000.11/6

 はじめてメールお送ります。
 私はOと申します。幕末から昭和20年ぐらいまで興味ある45歳 の男性です。よろしくお願いします。
 さて、今回お教えいただきたのは、ある文庫本のことです。
 昭和天皇が崩御された前後はいろいろな本が出ました。
 そのなかの1冊なのですが、かつて読売新聞社で連載、単行本になった「昭和史の天皇」の文庫版のことでおたずねします。いくつかのエピソードが角川文庫から出たのですが、「レイテ決戦」だったと思うのですが、買いそびれてそのままです。
 もし、お知り合いでお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご一報いただければ幸いです。
 よろしくお願いもうしあげます。


1997年度にいただいたメールはこちら
1998年度にいただいたメールはこちら
1999年度にいただいたメールはこちら
2000年度6月までにいただいたメールはこちら
2000年度10月までにいただいたメールはこちら
お返事、回答などございましたら、こちら
HOME

いただいたメールは実名でしたが許諾をいただいてませんので仮名にしてあります。
実名を出してもよろしければメールをいただければ光栄の至りです。