お便り、ご質問の部屋

ここは今までにいただいたお便り、ご質問のコーナーです

なおこのご質問に意見がありましたらメールをいただければ幸いです

1999.12/9

 こんばんわ、藤沢の海軍好き「M」ともうします。
7.9(k.ONO)さんのご意見、ご質問について役立つならお読みください。
 法務官というのは軍法会議を行う際の検察官、予審官、裁判官をつとめるものをい
い、昭和17年4月に誕生した武官ということです。
 武官となる前は明治21年には主理と呼ばれ、大正11年4月に法務官という名称 に変わったそうです。
法務官の資格というのは文官時代から、大学法学部卒でなおかつ司法官試補の資格を もっていることを要求され、さらに海軍法務官試補として軍法会議で一年半実務実習 を済ませてはじめて任命されるそうです。
詳細な事柄は光人社「海軍オフィサー軍制 物語」雨倉孝之を参照されるといいと思います。

藤沢市 Mさん


1999.12/6

 最近、インターネットをはじめました。35歳男性です。
このHPは会社のパソコンで見て知っていましたが、なかなかメッセージを書くこと ができませんでした。
私は小学生くらいのころから戦記、歴史(幕末もの)に興味を持ち始め、阿川弘之、 豊田 穣、司馬遼太郎、池波正太郎、の作品をよく読みました。
 特に海軍もの?が好きで戦前に生きていれば、海軍士官になりたかったと思うほ どです。
「先任将校」や「思いでのネービーブルー」を書かれた松永先生には、お会いする機 会を得てユーモラスもある貴重なお話を聞くことさえできました。
 幼いころは戦争の勇壮なことしか理解できませんでしたが、歳を重ねるにつれ戦 争は何があってもいけないと感じるようになってきました。
やはり平時の抑止力としての海軍が好きで、「ネイビー」と行ったかんじのスマート なものに憧れます。
 したがってというか、戦争末期のころの本来の良さ?を失った海軍には大分魅力 が欠けているような気がしてなりません。
こんなくだらないメッセージを書いて申し訳ないです。
 海軍士官にあこがれを抱き、尊崇の念を持ったきっかけというのは身内にそうい う人がいたからです。
兵学校70期の出身で飛行科偵察員でしたが、20年5月11日沖縄方面で戦死した そうです。
 父の従兄であるこの人に興味を持ち、おじさん(戦死者の兄)に話を聞いたこと もありますし、中学生のときはおばあさん(戦死者の母)にお墓参りに連れて行って もらったこともあります。
 私の実家には遺影が何枚かあり、写真を見るたびに憧れと尊崇の念を新たにした ものです。
父は八つ年上?のこの従兄に大変可愛がられたらしく、兵学校から休暇で帰省したと きの話をしてくれたのをよく覚えています。
父が言うには真珠湾の九軍神となり小説「海軍」のモデルとなった、横山正治少佐に 海兵時代殴られた(修正を受けた)ことがあると言っていたということです。
 そのときはよく解りませんでしたが、戦記小説をよく読むようになってから、6 7期(横山少佐)と70期は一号生徒と四号生徒という間柄というのを知り「もしか したら同分隊だったのでは?」と思うようになったりしました。
 そんなことを考えたりしているうちに、同期生で戦史に名を残した神風の関中 佐、343空撃墜王、菅野中佐とも親交があったのだろうか?などと考えたりもしま した。
 戦死者の最後の様子をしらべて見たいと思い、夏ごろ防衛図書館に行きました が、なかなかよく解りませんでした。
どなたか下記についての情報やこのメッセージについてのご意見、ご指導、ご鞭撻等 ございましたらご一報ください。
氏名および位階勲等  故海軍少佐 三堀正司  従六位勲5等
主な軍歴   17.6  38期飛行学生(偵察)
    18.6 宇佐空教官
           19.2 百里原空教官
           20.4 偵察11飛行隊分隊長(木更津空)
          20.5 鹿屋へ進出
          20.5.11  戦死
     (搭乗機は彩雲、もしかしたら陸軍製の新司令部偵察機も配備されていたのでそれかも知れません。
Eメール taisuke001@nifty.com

藤沢市のMさん


1999.11/18

先日、志賀元海軍少佐のメールを送りました高橋です。
まだネット歴一ヶ月の拙い私 のメールを、綺麗に清書して頂いた上掲載して頂き、大変感激しています。
 又、信号弾の一件に対し、色々なレスが寄せられたようで今更と思われるでしょうが、ネットの楽しさに感慨無量です。
 すまさんから頂いたお返事で、戦争反対のお考えを知る事が出来、重ねて嬉しく思っております。
私も全く思いは一緒です。
しかし、過去に有った歴史は、事実として永遠に語り継がなけ ればなりません。すまさんがこのページを開設されておられるのも、そこに主旨が有 ると理解しておるつもりです。
韓国や中国 から来賓が来る度、謝罪を要求されてしまうのは、国民性や歴史観の相違と言う言葉 だけでは済まされません。
現在の若者達の多くが、間違った歴史観を持っているどこ ろか、何も知らず、又興味すら持ってい ない。こんな教育政策の国の代表者の言葉に、誠意を感じ取って貰おうなど、正に巧 言令色としか受け止めて貰えないでしょう。
日本とアメリカが戦争をしていた事も知 らない大学生が居る国なんて、世界中の何処にあるでしょう。ましてや日本は当事者 です。
ビルマやニューギニア、そして広大な太平洋、インド洋の海底で眠る、未だ還らぬ 草むす屍、水浮く屍は、現在の日本をどう思うことでしょうか。
あの戦争で亡くなっ た方々がもし、御存命で有られたら、今の世 の中にどれだけ貢献して下さった事でしょう。
過去の歴史を忘れた者は、再び同じ過ちを繰り返すと言います。このままでは亡く なられた全ての方々が、犬死にだったと言うことになりはしないでしょうか・・・
 私事で恐縮ですが、時間とお小遣いが出来ると、旅行社の企画する戦地慰霊巡拝の 旅に、かつてその 地で戦っていらした方々や、そのご遺族と一緒に出かけています。
今迄で最も思い出 深かったのが、ラバ ウル、ガダルカナルの旅です。
火山灰に埋もれ、廃墟と化した東飛行場、完全に藪に 埋もれてしまった西飛行場跡。
この場所にかつて山本長官や草加長官が立たれたのだ なと思うと、鳥肌立ちっぱなしでた。
 ガ島は圧巻でした。一木支隊第一梯団玉砕の地、イル川河口は、本で読んだだけで は想像できない地形です。
あの川は雨期にならないと海につながらない川なのです。
その幅僅か10m程の砂州を越えて、 敵機関銃十字砲火の中に、重火器の援護も無いまま突撃するなど、自殺行為の前に狂 気の沙汰です。
 偶然にもイル川を訪れたのは8月7日、米軍上陸の日から丁度50年目の日に当た りました。(台南空 の早速の反撃、坂井三郎が重傷を負い、雲間に浮かぶ母の面影に招かれ、奇跡的にラ バウルに帰還したのもこの日です。)
 アウステン山の山頂に有る戦没者慰霊塔の前で行った慰霊祭では、同行させて頂い た諸先輩から推薦され、私が代表して慰霊の言葉を述べさせて頂きました。
 ムカデ高地で偶然出会った米国人は、この地で父親を亡くされた方で、やはり慰霊 に訪れた方でした。
 私達一行と暫く同行することになり、私の拙劣なる通訳で、かつての日本兵達と会 話を交えたその米国人が、最後の別れ際に言った言葉を、私は一生忘れません。
「私 は今日まで、自分の父親を殺した日本人を心から憎んでいた。それに日本人はあれだ けの犠牲者をこの地で出しながら、何度も此処に訪れているが、一度も会った事がな い。日本人は昔の事をすぐ忘れる民族と聞いて、死んでいった者の事も忘れてしま う、全く軽蔑すべき民族と思っていた。けれど今日、皆さんにお会いして、その考え を改めなければ いけないと思いました。」
 そう言って一人一人と握手を交わし、笑顔で帰って行っ たのです。(その米国人からは、帰国後もお手紙を頂きました。)
 沢山写真やビデオを撮影してきたのですが、メカオンチの私には、すまさんへ送る 術も現段階では解りません
。近日中にスキャナー等を購入する予定ですので、その後 考えさせていただきます。
特にタサファロングの海岸から、鉄底海峡越しに見たサボ 島、本当に近くなんですよ!こんな狭い海峡で第三次ソロモン海戦時、戦艦同士の砲 撃戦が有ったなんて、全く信じられませんでした。
 他にもいまだ波に洗われ続ける鬼怒川丸(破片をちぎって持って帰って来まし た)、現地戦争博物館で 撮影した零戦、一式陸攻、F4F、P-38、P-39、SBD、etcの残骸等々。
また長いメールになってしまいました。今日はこのへんで。

P.S.民さんから、Tさんて誰? と言うレスを頂いてますが、私は実名を明かしてもか まいません。
御配慮有り難うございました。

東京都 高橋 希輔


1999.11/12

旧陸海軍に関する戦史や小説をよく読むのですが、今一つ陸海軍の組織図が把握出来 ず 誤解している分があると思います。
いろんなホームページを探してみるのですが、なかなか発見できません。
適当なページがありましたら是非、ご一報下さい。
宜しくお願いします。

marcyさん

1999.11/11

例によって私の周囲にも、この手の話題についての話し相手が居らず、貴兄の頁を見 ると、自分が一部例外では無いのだとほっとして嬉しくなります。
 松山航空隊訪問日記を見て、是非お話しておきたい(本当は誰かに話したくて仕方 が無い)事が有り、お便りいたします。
 ご存知と思いますが、真珠湾攻撃時の加賀戦闘機隊分隊長であり、後に隼鷹に転 勤、南太平洋海戦時第二航空戦隊飛行長として、第一次及び第三次攻撃隊隊長として 出撃、その後紫電改及び烈風のテスパイを勤められた後、343空飛行長を勤められ ていた志賀淑雄元海軍少佐が我が家の近所に住んでおられます。
(実はつい最近知っ たのですが)  志賀さんは今年で85歳、戦後事業でも成功され、現在は第一線からは退いてはお られるものの、大変矍鑠とされています。  
お話したい事と言うのは、実はその志賀さんに、母の友人を伝にご紹介頂き、何度 かお話しさせて頂く機会に恵まれた際にお聞きした事柄です。
 志賀さんは戦後、サイレントネイビーを貫き、滅多にマスコミの取材にも答える事 はなく過ごされてこられ、小生が異常に?戦記に詳しい事から、一般人に化けたマス コミ関係者ではないかと、最初は非常に心配して居られた様子でした。
 暫くお話させて頂く内に双方の緊張もとけ、非常に気さくにお話しをして頂く事が 出来ました。鳥肌が立つようなお話を、山程聞かせて頂いたのですが、当然ながらこ こで全てお伝えする事はできませんので、特に印象深かったお話をさせて頂こうと思 います。
 真珠湾空襲時、無線封鎖によって起きた信号弾の読み違えミスは、一発目と二発目 の間隔が実に微妙だったそうです。そもそもは制空隊板谷少佐の見落としとはいえ、 あれは中国戦線で十分な経験を積んできた筈の、艦爆隊高橋少佐の明らかなる判断ミ スである。思わず零戦のコックピットの中で「馬鹿野郎!」と叫んでしまったとの 事。
このお話をされた時、幾分興奮気味でいらしたのが印象的でした。
 又、加賀の戦闘機隊隊長として赴任したのに、割り当てられた隊長機マークの付い た零戦の尾翼機番号が、A2-101ではなくA2-105だったので驚いたそうです。グッと来 た話の一つに、「僕は今でも時々思うことがあるんです。あの時、真珠湾に向かって 一番に母艦の甲板を蹴ったのは、同じ一航戦の赤城の板谷さんだったのか、それとも 僕だったのか・・・ 多分僕だったと思って居るんです。なんとか一番で飛び立とう と思って、発艦信号をずっと睨み付けていましたからね。」と、語られた時の、月並 みな表現ですが、少年のような笑顔です。
 志賀さんは自分が現役だった頃の事より、むしろ飛行長として赴任されていた34 3空の思いでの方が印象深い様です。今でも戦死していった部下達に対する、自責の 念を感じて居られる様で、毎月必ず靖国神社に参拝されているそうです。菅野、鴛 淵、林各大尉の個性、戦死された時の思いで話しをされたときは、目頭に涙を浮かべ ていらっしゃいました。
 志賀さんのお人柄をお伝えするのに最も相応しい話とし て、杉田飛曹長の戦死 された際の思いで話しが有ります。その日、いつものように上空哨戒をし、列線で発 進準備中の杉田小隊に発進許可信号を送ったその直後、遙か上空にキラリと光る物が 見えた。直ぐに中止信号を送るも間に合わない。身を挺して止めようと滑走路にまで 飛び出したがやはり間にあわない。紫電改の機体がやっと浮かび上がったその直後、 急降下してきた敵機にかぶられてしまい、僚機共々撃墜されてしまった。「杉田を殺 したのはこの僕なんです。」 この話をされた後、暫く沈黙されておられました。
 又、私が昔、本で読んで聞きかじった杉田飛曹長の母親の取材記事、「うちの息子 は内地で死んだ筈なのに遺骨は石ころだけだった。」 と言う話をしたところ、「そ れも僕の 責任だ・・・ そうか、僕にはまだ、そういう仕事がのこっていたんだな・・・」 と、目を閉じて いらっしゃいました。
 偉くなった人にありがちな、昔の自分の失敗を糊塗するような面が一切無く、物静 かで 私の如き見ず知らずの若造にも実に紳士的に接して下さる、いかにも兵学校出のエ リー トという感じの方でした。しかしながらその眼孔の奥には、ただならぬ鋭さを誰もが 感ぜずには居られない雰囲気も持ち合わせて居られます。
 そう言う訳で私は今、完全な志賀フリークです。まだまだお伝えしたい事は山程有 るの ですが、今日はこのへんで。
 何かお聞きしたい事が有れば、私がお聞きした範囲内でならお答えいたしますの で、 その時はメールをお送りください。今後も末永くホームページを続けて下さい。
楽しみにしております。
                        東京都練馬区在住
                        Tさん 
      自営 業 42歳

1999.11/1

先日、はじめてこのサイトを拝見しました。
私の父は、駆逐艦磯波に乗艦時、雷撃により沈没した後、 波間を漂流し、救出されたそうです。
その艦の碑「駆逐艦磯波戦没者慰霊碑」が、呉の海軍墓地にある事を知り、 先日、父に話したところ、そのような碑があることは、知らなかったそうです。
思い出のある艦の碑なので、是非、訪れてみたいと言っています。
この「駆逐艦磯波戦没者慰霊碑」を建立された方達の、 連絡先をご存知の方がいらっしゃれば、教えていただけませんでしょうか。
なお私の父は、この「磯波」のほか、 「八雲」「哨戒艇102号?(元米駆逐艦スチュワード)」に乗艦していたそう です。

服部 茂夫
hatr@pb.highway.ne.jp


1999.10/30

はじめまして。自分はKAMPALAというものです。
実はロンドン条約で建造が中止され、 土佐湾に沈められた戦艦「土佐」の仕様などについて知りたいと思ってます。
無知識なもので、お恥ずかしい限りです。
もし、知ってるかたは、メールなどで知らせていただければ幸いです。
宜しくお願いします。
メールアドレスはkanpara@hotmail.comです。
*KAMPALA*


1999.10/21

 はじめまして。
私は最近、旧海軍について興味を持ち出した者です。
ご存知であれば下記について、参考文献を紹介して頂きたくお便りしました。
 捷号作戦の時栗田艦隊は、サマール島沖で敵護衛空母艦隊と遭遇、追撃戦 を行いました。この時の日本、アメリカ双方の状況を詳しく説明した文献を探してお ります。
 具体的には、大和の発射した九一式鉄鋼弾初弾命中の状況
         三式弾で敵機を打ち落とした時の状況
         大和のレーダー射撃がかなり至近弾だった状況
         ガンビアベイ沈没の状況
         大和と長門が魚雷に追われて戦列を離れた状況
         利根がどの程度空母群に接近できたか  
                                    ・・・・・ ・・・等です。
 連合艦隊が最後に挙げた目立った戦果をぜひ詳しく知りたく、お手数ですが宜しく お願いします。

山田さん


1999.10/10

私は42歳。毎日、戦記物を読んでいます。
以前から疑問に思っていたことについて、このHPの掲示板に質問したいと思います。
石川常明さんの知り合いに長門の通信兵をしていた方がいるそうですが、その方ならわかるかもしれません。
 レイテ沖海戦時の日本側の通信事情の悪さについてです。
今、手元にくわしい資料が無いのですが、小沢艦隊が米機動部隊を北方に引き付けて、懸命にその攻撃に耐えていることを栗田艦隊は全く知っていません。
又、志摩艦隊・西村艦隊も、他の艦隊の動きを把握していません。発せられた電報は半日近くたってようやく相手の長官に届く始末です。通信機が故障していたとか、破壊されていたわけでもないようです。
旗艦の愛宕が早々に撃沈され、相当な混乱があったことは理解できますが、それにしても時間がかかり過ぎます。
 GF司令部が内地にあって、的確に各部隊に中継してやれなかったのでしょうか。
 暗号を翻訳するのに時間がかかったとしても、かかりすぎです。
 どなたか、ご教示お願いします。

実名掲載OKです。ニックネームは”つねきち”です。
石 井 恒 雄
fukuno@p1.coralnet.or.jp


1999.9/27

はじめまして郭と申します。
海ゆかばという日本の映画を見て、この歌に関心を持つようになりました。
それでいろんな資料を探したところ、帝国海軍歌集で次のような歌詞を発見しましたが その意味がどうしても分からないところがありましてーーー
海ゆかば

海ゆかば
写る月影
山ゆかば
引きを求め
黒潮の
早瀬を越えゆかば
かえりみはせじ
この歌詞の中で”引きを求め”という文章の意味を教えてもらうことができましょうか。


1999.9/23

海軍大いに結構です。確かに陸軍よりましでした。
私は5月27日生まれ(日本海会戦大勝利の記念日)、但し、戦前1923年震災の年 うまれ、幼稚園から大學 までを旅順市で育ったモノです。
軍国華やかな中に育ち、アジヤを開く基地が旅順市だと絶えず教わり、有り難い 事に、工科のミチを 歩み戦後の平和に働き続けられました。
中学時代、一年上の秀才の先輩が兵学校に入り、じつに優秀で、アッツ島沖で潜 水艦上で戦死、 米軍の戦記にものり、確か、「初陣」と題して、兵学校の会誌にも載ったと聞き ました。大変惜しい限りです。
 やっと勝ったことも次第に忘れ、日清、日露の戦いではじめは威勢良く大陸に 進出、アジアを起こす という国是に共鳴したのですが、日本だけのアジヤとして、如何せん世界の情勢 に疎く、米国は日本語を 勉強してるのに、日本は英語を毛嫌いして、例のノモンハン事件以来反省せず に、軍の台頭が結局、国民を敗戦に おいやったのはよくご存知でしょう。
どうか、21世紀は島国日本の世界えの視野の狭かったことを深く反省、海軍も 至誠にもとりしはなかったか の反省に加えて、是非「広い世界におのれの視野の偏りはなかったか」を加え、 日本市民に子や孫の代に も世界の大勢を見誤らない勉強の努力を絶えず怠らないようお願いいたします。
武蔵、大和も時代の世界の未来を認識不足だったのが惜しまれます。
現在もあの敗戦直前の緊張を忘れず、モノやカネに目がくらまないようにしたい ものです。
子孫の未来は若者の双肩に掛かっているのです。以上

yukio kamaharaさん


1999.9/3

質問がありましてメールいたします。
海軍省の組織で「施設本部」、「電波本部」、「通信本部」というのを見受けら れます。艦政本部や航空本部などは有名ですが他の3本部は馴染みがうすいので す。
何となく名前で分かりますが具体的な職務内容やどのような経歴の将官が配属さ れるのでしょうか?完全に技術士官のエリアでしょうか?
御存知のかたはお教えください。

海軍嘱託身分についてうかがいます。
小説(史実に基づく)などで海軍省や軍令部で「理事生」や「女子理事生」なる 職制が登場します。
内容を察するに今で言う「補助員」、「バイト」のような感じです。これはどの ような身分なのでしょうか?戦時中の所謂勤労奉仕、女子挺身隊のようなものな のでしょうか?平時も存在していたのでじょうか?

お教え下さい。武官、文官の外ということでしょうか?

ONO-KIMIHIDEさん


1999.8/17

こんにちは、今日はじめてHPをみつけてはじめてお便りします。
8月16日に祖父の49日法要があり、祖父宅を親戚で片付けていると祖父の 昔の写真が出てきました。
祖父は海軍に召集され「厳島」という軍艦に乗っていた事はわかっております が「厳島」という軍艦がどのような種類はものかわからないため何かわかる事 があれば教えてください。
祖父の写真の中には「上海事変停戦会議出雲艦上にて」とか、「御召艦比叡を 迎える陸奥のトウゲンレイ(漢字を忘れてしまいました)」の写真がありまし た。
この現場に祖父はいないので誰かに頂いた写真だと思います。(陛下大元帥の 写真もありました)
話は元に戻りますが「厳島」はどこかで撃沈され祖父は捕虜になったときいて ますが正確な情報がないため何とも言えません。
どうか「厳島」に関して情報があれば教えていただきたくお願い申し上げます
ハンドルネーム やま
メールアドレス m-yamazaki@h-hbm.co.jp


1999.8/15

小生s24年生まれ 今年50才
海軍出身の親父が持ち帰ったハンモックで幼少のころ育ちました
そんなわけで私の体には帝国海軍の血が流れているようです
   軍艦マーチ大好き
 戦艦大和特攻に今でも乗りたいと思っている
でも平和が一番と思います
親父もこの世を去ってまもなく20年になります
お盆に親父の供養にとメールを送ります

親父
大日本帝国海軍2等機関兵曹  後藤一男
乗艦  海防艦76号(長崎三菱へ、ぎ装員派遣以来)
戦後は復員船に約3年乗船 、、旧海防艦(T16号)
e-mail : m.g@tokai.or.jp
栃木県 大田原市
後藤 正光 (Masamitu Goto)


1999.7/27

こんにちは。
戦艦陸奥記念館に行きたいのですが、住所などくわしい事を 教えて下さい。
中垣


1999.7/27

はじめまして。上野 雅樹と申します。
インターネットで海軍を検索して、こちらへ参りました。
さて、中代丈晴さんが紹介されていた 「海軍めしたき物語」ですが、同じく新潮文庫から 続編の「海軍めしたき総決算」が出ています。
こちらも、笑いの中に戦争の虚しさを 考えさせられる名著だと思います。
御一読をお勧めします。

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MASAKI UENO
E-MAIL aaj12660@pop21.odn.ne.jp
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1999.7/24

こんにちは、HP拝見させていただきました。
私の叔父は、戦死致しましたが生きていれば80歳を超えて いると思います。
その戦死致しました叔父の弟が私の父です。 75歳です。
わたしは40歳になります。
叔父は、戦艦 武蔵に乗っていて武蔵と共に戦没致しました。
叔父の墓に遺骨はありません。
父は今でも叔父の事を想い、武蔵の最後の時まで乗り組んで おられた方がいないか・・と、その存在を探していますが あまりたいした事ができません。
私は、インターネットと言う環境がありますので なんとか協力できないかと思い、いろいろしらべましたが なにしろ詳しくありませんので、何でもいいので 上記しました事に関係あることをご存知であれば 教えていただけませんでしょうか?

名艦長の最後の手記を読ませていただきまして そのときの様子がわかり、私の叔父もどのような思いで 最期を迎えたのか伝わる物があり胸の詰まる思いです。

小さな頃から、父の遊びに連れて行ってくれる場所と言ったら 私は、横須賀育ちですから、いつも「三笠」でした。
その割に海軍のことなど全く分かりませんで 検索で訪問できたこちらを拝見しメールを出させていただきました。
突然申し訳ありません、 何かありましたらメールしていただけますと幸いです。
それではおげんきで。
大変失礼致しました。

             横浜市      由美子


1999.7/21

検索ページで、『海軍』と入れたら、 このページが出てまいったので、訪問させていただいたものです。
もう、ご存知かもしれませんが、老婆心ながら。
質問コーナーにあった、「はやとも」というふねですが、 漢字では「早鞆」と書きます。
この船は、大正4年の八四艦隊計画で建造された、 襟裳型給油艦の一隻です。
私が今見ている資料は、モデルアート社より発売されている、 1/700艦艇模型ハンドブックという本ですが、 これによると、「早鞆」は、 終戦時、シンガポールで中破残存 ということになっています。
ちなみに、この本、WLシリーズのプラモデルを作られる方にはもちろん、 そうでない方にも、特に初心者の方には、 艦艇研究の良い資料になるのでは、と思います。

投稿ついでに、もうひとつ失礼なご指摘を。
「艦長最後の言葉」のコーナーに、 飛龍の山口少将から、第10駆逐隊安部大佐へ とありますが、正しくは阿部大佐です。
この阿部大佐、山口少将が言われたとおり、 というわけではありませんが、 昭和19年11月29日、 あの、空母「信濃」の艦長として、 艦と運命を共にされております。

乱文お許しください。
私も、まだまだ机上の知識だけですので、 こちらのHPで勉強させていてだきたいと思います。

佐野 直哉
e-mail:nsx-r@dab.hi-ho.ne.jp


1999.7/13

ご存知ではないかもしれません、(たぶんとても小さい軍艦又は、船では・・ ・)
私の祖父は昭和18年から21年までインドネシア アンボンに、 最初は海軍で、後に陸軍として約4年間アンボンにいた物です。
調査船にのり、資源調査で島々を渡っていたそうです。
残り最後の1年間、昭和22年までの1年間はピルという半島で捕虜生活をしていた そうです。
そこから和歌山県(?)へAmerican Liberty (?)という船で帰国したそうで す。
が、”早友(ハヤトモ)”という軍艦に海軍時代は乗っていたそうです。
撃墜され、シンガポールのドックにはいったそうです。
このハヤトモという、船(軍艦?)の写真、または絵はないでしょうか?
または、なにかご存知ないでしょうか?

Chizu Suto


1999.7/12

初めてメールいたします。
インターネットで陸奥について探していたら、 貴方のHPにたどりつきました。
当方ツーリングバイク雑誌に陸奥記念館についてレポートするため、 陸奥に関して現在調べていますが、何分にも戦艦の知識があまりないため、 困っています。
というのは引き上げられた陸奥の行方についてです。
今現在どこにあるのか、 わかりませんでしょうか?陸奥記念館に副砲塔などがあることは 知っています。
主砲については、船の科学館、長野の聖博物館にあると 聞いていますが、これは現在も確実なのでしょうか?(改装前の主砲が江田島にある ことは知っています)
あと、昭和45年の引き上げの際すべてが引き上げられたのでしょうか?
でなければ、今現在も瀬戸内海に陸奥の残骸は残っているのでしょうか?
わかる範囲で結構ですので、お教えいただけましたら幸いです。
以上よろしくお願いいたします。

山本雄二
_____________________________ やまもと
e mail address
[KGH12251@nifty.ne.jp]
[dc-mac@genshoku.co.jp]


1999.7/10

こんばんは、初めてお便りを出します。
軍艦内の『炊事場について』という所に目を付いたのですが、かなり大変だったらし いですよ。
敵に向って機銃をぶっ放している人たちよりも・・・
何せ、敵が襲いか かってくる間を縫って握り飯を配ったりと、もう一つの戦場と呼べるぐらいだそうで す。
詳しい話は、二見文庫の『戦艦大和びっくりデータ99の謎』に当時の烹炊室の様 子や食事について書かれています。
あと、どこで読んだのですが、当時の若い担当者 が誰もいないこといいことに大きなお釜で、『五右衛門風呂』をしていたそうです。
それではまた。何処かの時間、何処かの場所でお会いいたしましょう
*************************
      知識の交流を…
氏名:村上 誠一郎
筆名:村上 征一郎
メールアドレス:imk@he.mirai.ne.jp
HP:魔法協会電脳支部。ただいま快調(?)制作中。
*************************


1999.7/9

おはようございます。初めてメール致します。
旧日本海軍の士官の種類につき一件質問がありますのでご存知でしたら、是非お 教え願います。
種類として兵科将校(後機関科も含む)、主計科、技術科(造船、造機、造兵 )、軍医科、薬剤科あるいは軍楽科などが有りますが、中には「法務科」士官と いうのが見受けられます。
法務科士官というのはどのような人間がどういう経緯で任官するのでしょうか?
法務というには海軍内の軍法会議や軍隊内裁判を取り仕切るのかとは想像できま すが、そのような職種は「文官」で対応するのでは思っていたのですが。
法務将校に位階として法務中将以下法務中尉までありますが、資格に兵学校出身 のみで法律問題を処理出来たのでしょうか?あるいは別の道から任用するのでし ょうか?(短現など)
非常に興味がありますのでご存知であれば「法務科」士官についておおしえくだ さい。

以上(k.ONO)


1999.6/29

私の母方の祖父が海軍の設営隊にいたのですが,
潜水艦で内地に帰投して,乾舷の低い潜水艦から大和を見た祖父は上官に 「あんな島有りましたっけ?」と聞いたそうです(^^)
#もちろん,こんな風には聞いてませんが(^^;
大和級の巨大さを物語るエピソードですね.
戦争末期になると基地設営を終えて帰投したら基地が玉砕してたなんてことも 有ったそうです.幸い私の祖父は父方,母方共に無事でしたけど.

では,またチャットでお会いしましょう.

♪明石 和繁 [Akaishi Kazushige] ♪ k_akaish@kb3.so-net.ne.jp


1999.6/22

私も物心ついたときからの軍事マニアみたいなものですが、戦艦の 炊事場について幾らかご存知でしょうか?
どうしても我々は「やれ 大和の主砲は何センチ」だの「ゼロ戦の速度は何キロ」だのという 方にいってしまいがちですが、最近読んだ中でおもしろかった本が 「海軍めしたき物語」(高橋 孟・新潮文庫)です。
戦艦霧島の厨 房における一主計兵の体験記が記されています。
かなりのマニアで も知らないことがたくさんです。
以下、その本にあった隠語
安芸の宮島が踊る:安芸の宮島といえば厳島神社、厳島神社といえ ばしゃもじが有名。
戦艦の飯炊きには一メートルもの樫材のしゃ もじがあり、それを使って尻バット!をすることだそうです。(打 ち所によってはかなり危険だったそうです)
艦隊入港:爪楊枝のこと。艦隊が入港すれば妻帯者は妻に会う、つ まり妻に用事があるということ。
麦粉:当時の「味の素」の缶のデザインには麦の絵があったそうで す。

中代 丈晴 * Bruce NAKADAI
bruce-n@mvc.biglobe.ne.jp


1999.6/21

チャットでお世話になっています喇叭吹きです.

お便り,ご質問の部屋の山下氏の父君ですが 浜松市の北の田舎町在住だったとのことですので おそらく,国鉄浜松工場を爆撃した米空母艦載機による 攻撃を目撃されたのだと思います.
現在JR東海の新幹線整備工場となっている 旧国鉄浜松工場の屋根を支える鉄骨には12.7mm機銃弾の弾痕が未だに残っている ようです.
あるいはB29に夜浜松空襲の護衛機かもしれませんが・・・
後,私がこの分野にはまった最初のきっかけは小学校の図書館で読んだ『戦艦大和の 最後』ですね.
黄色い表紙の小学生向けの本でした.
あと,中学校にあった太平洋戦争の記録写真集 と, 映画『零戦燃ゆ』ですね.
戦争の無情さ,悲惨さを感じたのは『はだしのげん』です ね.
はだしのげんを読んでから戦争はかっこいいという考えを棄てました.
以上,長々と脈絡のないメールとなりました.またチャットでお話しできることをし ております.
実名は出していただいてかまいません.

♪明石 和繁 [Akaishi Kazushige] ♪ k_akaish@kb3.so-net.ne.jp


1999.6/6

  始めてお便りいたします。
私は海外居住者ですが、ひょんなことから「海軍兵学校生活」という大正2年発行の アルバムを私の友人宅で見つけました。
装丁がしっかりした大変美しい本で、とても 80年以上前のものとは思えないほど写真の写りもよく、この本に関して何か知って いる方がいらっしゃれば教えていただきたいと思いメールを送る次第です。
アルバム の表紙の裏には、J.TOGO署名の英文のメッセージが書き込まれています。この 東郷氏はやはりあの東郷家の一人なのでしょうか。
日本から日頃はなれているせいか、妙に興味と愛着を感じてしまい、何とか出自を調 べたいと思っています。
ご協力いただければ幸いです。

  吉開俊也


1999.6/4

  初めまして、山下と申します。
27才の会社員です。
小さな頃から、父親に太平洋戦争 のことを言い聞かされて育ちました。
父は当時小学生ぐらいだったということですが 、実際に米戦闘機(機種は不明)による機銃掃射で近くにあった鉄道を破壊されたと ころおよびその戦闘でパラシュート脱出した米兵を目撃したそうです
。父がすんでい た場所は静岡県浜松市の北にある田舎町のはずなんですけど、こんなところにまで攻 撃機(もしかして偵察?)が来たんですね。
おかげで「零戦」「連合艦隊」「敵機」とかいった言葉を聞くと熱くなってしまいま す。
質問があるのですが、当時の艦隊の台所事情をもし御存じならば教えて下さい
。腹が 減っては戦はできないでしょうし、かといって豪華な食事でもないと思います。しか も作戦期間にきっちりと全員にまわる量を積んでいたのでしょうか?
映画などで船の 重さを軽くするために机やら『こめだわら』をどんどん捨てているものがありました 。
ほんとにそんなことしたんでしょうか?

命をかけて戦う男の食事、大変気になります。


1999.6/1

  呉出身でありますので、子供の頃から旧海軍 には興味があり、勉強させて頂いておりました。
貴殿のHPは素晴らしいの一言であります。
中でも、「艦長最後の言葉」には今の我々が 学ぶべき点(自己責任等)が多々あり、大変 感銘深いものと感謝致します。
海軍の教育・訓練には今に通づる規範が多く あります。
今後は是非それらを紹介して頂きたく 御願い申し上げます。
(5分前精神、機先を制す等) 今後益々のご発展を衷心よりお祈り申し上げます。

社団法人 呉青年会議所 O氏
”戦艦大和を生み、旧海軍の遺徳を顕彰する呉から”


1999.5/27

  メールありがとうございました。
高1の時にはすでに海軍にはまっておられたんですか!!!
 「はまったきっかけ」みたいなものがあったらまた教えてください。
ちなみに僕は、「紺碧の艦隊」のビデオを最初に見て以来、海軍に魅せられました。
ほかにも、「旭日の