お便り、ご質問の部屋

ここは今までにいただいたお便り、ご質問のコーナーです

いただいたメールはすべて実名でしたが許諾をいただいていませんので仮名にしてあります。
実名を出してもよろしければメールをいただければ光栄の至りです。


2005.12.9

大和護衛艦乗組員の最後の手紙があります。
私の知人の仏壇にありました。写真も一緒です。 お許しを得てネットで公開しています。http://www12.ocn.ne.jp/~jiti2/ ご覧いただければ、幸いです。
適切な場所で永久保存していただければと望んでおられます。

広島県 Sさん


2005.10.28

初めてメールいたします。
僕は  北海道、北の町 枝幸町に住む ごく普通の中学3年生です。
先日、学校の国語で、作文作成があり、それが認められ、南宗谷弁論大会(11月24日)の出場が決まりました。 僕は 正直作文は苦手です。 はじめ、題は、「命について」 八杉さんにメールしたくらいですから 内容の想像はつくと思いますが もちろん 大和のことを書かせていただきました。 友達みんなは、僕が以前から 大和について いろいろ興味を持って調べたりしているのを 「古い」「ださい」「時代遅れ」「おまえは昭和生まれか」と ばかにしていました。
別に 僕は気にしていませんが みんなは 本当の大和を 知らないのではないか?と 思ったのです。
できるものなら 八杉さんに 僕の学校に来て 大和の話を語っていただきたいと 思っていました。 その僕に 先生から 弁論大会の話が きたのです。 人の前で話すなど 絶対に嫌な僕です。 でも、周りの友達を 見ていて 日本人として 「大和のことを 僕に 伝えてほしいと・・・・・」 なんだか そんな気がして 引き受けてしまいました。
弁論時間は5分間。 論文すべてを 大和一色にはできません。 僕の心に残っているのは 「敗れて目覚める  それ以外にどうして日本が救われるか  今目覚めずしていつ救われるか  俺たちはその先導になるのだ  日本の新生に先駆けて散る  まさに本望じゃないか」 僕はすごくショックでした。
僕らのために?そう思ったからです。 この言葉を文に使いました。 僕の言葉でどれくらい みんなに伝わるか・・・・明日、枝幸中学校文化祭で 初めて話します。 八杉さん、生きていて下さってありがとうございます。
そして、退院おめでとうございます。
今回 八杉さんの講演に 行くことが出来ませんが、必ず 行きたいと考え、一生懸命、お金をためています。 本当なら 来ていただきたかった、、、、これが本音です。 一人でも多くの人が 大和を忘れないで 感謝して 生きてもらうために、明日、がんばります。
また メールしてもいいですか?
発表論文は  「平和の 礎 〜海底からの願い〜」  です


北海道 Oさん


2005.10.23

はじめまして。 浜松に住む、H 39歳です。
私事、中学生の頃から零式艦上戦闘機に興味を持ち、プラモデルをはじめ、写真集や 多くの小説を読んでおります。
 また、知覧、浜松基地、鹿屋、国立博物館等にも出 向き、ゼロ戦を拝見させていただいております。 訪れた先で、いろんな方からゼロ戦、特攻隊、太平洋戦争の話を多く聞いておりま す。
小説でしか知らない戦争の実態、搭乗員様の心情など聞かされ、はっと思うことがご ざいます。
自分がゼロ戦に憧れているのは、最新の車に憧れると同じ心境なのではないか? 撃墜王という言葉にかっこよさを感じてしまうのは、非常に不謹慎なのではないか? 広島、長崎を訪れ、映画や小説の中から「戦争の悲惨さ」「悲しさ」を感じ取ろうと いう意思を持ちながらも、 どこか、自分の気持ちに間違いが出ているのではないか? という疑問です。
吉村昭先生や豊田先生の航空戦記を読み、ゼロ戦を通して「太平洋戦争」を知ろうと しているはずなのに・・・ 戦争体験の無い自分「ゼロ戦に憧れています」というセリフを口にした時、同世代の 人達は興味を示しません。 実際に搭乗されていた方々、戦争体験をお持ちの皆様に、もっと多くの話が聞ければ と思うのですが、 「ゼロ戦に憧れています」という言葉に対し、「何も知らないくせに・・」という嫌 悪感を与えてしまうのでは? と思い、口にする事が出来ません。
間違っておりますでしょうか?
突然のメール、支離滅裂な内容、失礼いたします。

浜松市 Hさん


2005.7.22

.小生、仮にペンネーム零戦55としておきます。
小生の父は空母「瑞鶴」にて真珠湾、珊瑚海海戦、ラバウルでの航空作戦等に零戦で参加し、ラバウルでの負傷後内地にて教育隊勤務を経て終戦時は松山の343空にて紫電改に乗っていました。
その父は3年前、86歳で他界しました。 その父が生前申しておりましたが、空母から発信する時、艦攻が先に発信することはないそうです。
映画にはそのようなシーンがありました。空母からは零戦、艦爆、艦攻の順に発信するそうです。

Kさん


2005.6.14

こんにちは。
すばらしいホームページですね。 勉強になります。
私は、ハンドルネーム "おやぢ" と申します。
2005/4/29 Yさんのご質問ですが、日本海軍の諸艦艇の一覧表と、 読み仮名も掲載されている書籍があります。
写真なども豊富で、なかなかよい本だとおもいます。
比較的入手しやすいと思いますので、ご参考までに。
「写真集日本海軍艦艇ハンドブック」PHP文庫 多賀一史 著 2001刊行 値段(当時)781円
Yさんへの回答として、参考になることを心から願います。
それでは、またお邪魔させていただきます。

HN おやぢ


2005.5.04

初めまして。
私は千葉に住むSと申します。先月、呉市に大和ミュージアムがオープンしたとの事 以前より戦艦大和につきましては素人ながら、本やビデオ等で色々と調べてきました。
また、当HPでの 「八杉康夫」さんの映像を見ながらボロボロと涙を流してしまいました。
今月の下旬には呉市に一度、拝観しに行こうと計画をしているところです。 で、質問なのですが以前テレビで見たのですが、プラモ会社タミヤ?だか分かりませんが、プラモデルの箱の絵を書いている方で 戦艦大和の絵を書いている方を探しております。
多分、関西方面の方だと思うのですが、もしお知りでしたらお教え下さい。

追伸、「戦艦大和が沈んだ日」の本購入させていただきました。これから読ませていただきます。

千葉県 Sさん


2005.4.29

須磨さま

日本海軍の戦艦、空母などの一欄表をありがとうございました。
これは大変な資料です。よく集められました。感謝します。
ただ、非常に残念なことがあります。
軍艦の名前にヨミカナがふってないので、なんと読むのかわからないのがいっぱいあるということです。 特に、改装空母、水上機母艦、駆逐艦がわかりません。 教えてくださるか、適当な本があれば御紹介下さい。
須磨さんの「成彦」というお名前も「しげひこ」様なのか「なるひこ」様 なのかわからないのです。
フリ仮名は大事です。

Yさん


2005.4.29


ゼロ戦や隼などの戦記ものをよく読んでいます。
その中で「ひねり込み」という言葉をよく目にするのですが、これはどのような飛行姿勢なのでしょうか?

Iさん

2005.4.21

須磨様、S様 いろいろお骨折りありがとうございます。
お陰様で、スッキリとしました。 三笠保存会の方が言っていたことは正解だったわけですね。
今後もホームページに立ち寄らせていただきます。
よろしくお願いいたします。
ところで記念艦三笠は今年の2月からリニューアルオープンをしています。 展示を通して、当時の極東の緊張がより緊迫して伝わる感じがしました。 来る5月28日(土)には日露戦争勝利100周年記念講演会が開かれます。 入館料は無料になるそうです。
お問い合わせは046(822)5408の三笠保存会まで。
以上、チラシより。

横須賀
 Yさん

2005.4.21

初めて当サイトを見て調査お願いする次第です。
 私の叔父の所属部隊及び所属名等分かりましたら 連絡御願い申し上げます。
氏名:荒木 正一
出身:岡山県和気郡日生町
召集:昭和17(1942)年1月10日 呉へ海軍水兵として入隊  駆逐艦「陽炎」に乗船
訃報:昭和18年3月25日    トラック島沖にて戦死   功七級金鵄勲章を貰っている。
「陽炎」が同年5月8日クラ湾にて沈没したのは調べました。 叔父の関連の事分かりましたら、回答頂けましたら幸いです。  

岡山県Kさん

2005.4.18

4月13日付の横須賀・Yさんの質問にお答えします。
Yさんのご覧になった写真は「簾状担架(れんじょうたんか)」もしくは「簾状弔架 (れんじょうちょうか)」と呼ばれる負傷者の搬送具で旧海軍では昭和期まで用いら れていました。
海軍医務・衛生史に詳細な記述がありますが要旨を記します。
 日清戦争までは負傷者の搬送に画一された方法がなく、各艦の軍医官が工夫して患 者搬送具を作製して用いていた。以前よりハンモックを改造した「マクドナルド氏担 架」が実用化されていたが、「厳島」軍医長・天寺祐斉はイギリス軍艦で用いられて いた「ダーク氏海用担架」を知り早速これを作製して医務科に備え付けた。
また「松 島」では二人の運搬手で搬送する「ランダー氏担架」を用いた記録がある。そのほか 海軍大佐・新井有貫が工夫した「新井氏運搬器」、海軍大佐・三浦功が考案した「三 浦氏網製運搬器」、軍医大監・吉田貞準が考案した「吉田氏担架」などが記録に残っ ている。
 日露戦争では日清戦争での貴重な経験から搬送用具の統一を図ることになり、佐世 保海軍病院長であった軍医大監・戸塚環海が、狭いハッチやラッタルを容易に通過し、 また高所からも安定して負傷者を収容しうる簾状弔架(担架)を考案した。
 海軍省医務局編纂「日露戦役海軍衛生史」には簾状弔架(れんじょうちょうか)と して記述されている。 『戸塚佐世保海軍病院長此の弔架を考案製出し明治36年10月佐世保軍港に集中せる聯 合艦隊の諸艦に供給せり。各艦にありては戸塚式簾状担架もしくは簾状弔架の名をもっ て戦闘中之を実用に供し死傷者の運搬上便利を得たり。此の搬具の構造および使用の 要旨は当時同官の其の筋に提出したる報告によるに凡方1.5〜2メートルの竹簾より成 り帆布をもって内面を被い其の帆布は竹簾の上下端を超えて延長し即ち上端の延長は 約0.9〜1メートルにして下端の延長は僅かに0.15メートルを出でず。此の帆布の上下 両端には二條の麻縄を附しまた竹簾の背面には上下に二條の束帯を附したるものなり。 使用法は先ず竹簾を展開し之に傷者を仰臥せしめ竹簾の両縁を翻転して傷者を被い二 條の束帯をもって結束し足端の方に附せる麻縄を牽引結束して運搬具の下端を閉鎖し 該具を直立せしむるも以て傷者の滑落を防ぐを得しむ。此の弔架を以てする時は傷者 を水平位、斜位もしくは垂直位に運搬すること自由なり。即ち水平位に在りては二人 の運搬手上下端の麻縄を取り之を提げて運搬するを得べく或いは一人の運搬手にして 上端の麻縄を取り甲板上を橇(ソリ)状に曳行することを得べく甲板間の昇降階梯上 には斜位と為し上端の麻縄を抑えつつ滑下せしむを得べし。檣楼または機関室より傷 者を昇降せしむるには垂直位と為して上端の麻縄を「テークル」に掛け上下せしむを 得べし。通気孔、マンホール、駆逐艦の狭隘なるハッチ等をもなお能く通過せしめ得 べし(原文:カナ旧字体)』

相模原市 Sさん


2005.4.13

はじめまして。横須賀のYと申します。
ご教示願いたいことがありましてメールしました。
先日、横須賀市の記念艦三笠を訪れました。
展示の写真の中に、非常に不思議な写真があったのです。それは旅順港閉塞作戦時の、 艦上で撮られたクルー達の記念写真のようです。船別に撮られていたので、何枚かあ りました。
一見普通の集合写真なのですが、良く見ると一人だけ、体を簀巻きのようなもので巻 かれている写真があるのです。それが2枚ありました。
三笠保存会の方に伺ったら、 「多分」という前置きで、怪我をしているのじゃないか、という事でした。このよう にすると怪我人を船から船に運搬しやすいとの指摘でした。
「多分」という言葉がつ いていた為、100%の確信は無い様でした。
御存じのようでしたらぜひ理由を教えて下さいませ。
よろしくお願いします。
なお、海上自衛隊の広報に聞いても分かりませんでした。

横須賀
 Yさん


2005.4.9

突然メールでのご挨拶を差し上げる失礼をお許しください。
Kと申します。東京神田にて小さな潜水関連事業を営むものです。
第二次大戦時の帝国海軍のインド洋での海戦に関する資料と情報を求めている間に須磨様が運営されるHPにたどり着きました。
このメールでの質問あるいはお願いは以下のような目的と主旨です。

1942年4月に南雲中将率いる海軍航空母艦赤城に撃沈された英国海軍艦船の沈没点を特定し、視認確認することが出来ました。
場所はインド洋です。
2006年の探査時に、可能であれば、当時の赤城の乗員の方に同席をしていただければと考え、コンタクトがとれればと希望しているのですが、そのような方々と接触する手がかりがありませんでした。
そこで何か赤城の乗組員の方に連絡を取る手がかりがあればと思いこのメールを発信したしだいです。
また同時に、当該英国海軍艦船の沈没時の帝国海軍側の記録や映像があれば、それらの情報または情報への手がかりがあればとも考えています。
英語のサイトでは多少の情報を得られたのですが、日本のインターネット上でももう少し情報があるだろうとタカをくくっていましたが、残念ながら公式な情報は見当たりませんでした。
おそらくこれは当時の世代の方々のほとんどが80代中盤以上であるからかな、と勝手な推測をしています。
今後は関東地域の博物館や国会図書館などで資料を探す時間を作らねばと思っています。
まことに突然で不躾な内容で申し訳ありません。お時間のあるときに、ご連絡を頂戴できれば幸せです。

東京都Kさん


2005.4.7

松永様は「海兵68期」とのことで、謹んでメールいたします。
私は 同じく 海兵68期の「三浦 政善(みうら まさよし)」の甥です。
叔父政善は昭和十七年一月 「セレベス島メナドの落下傘降下作戦」 で戦死しました。 
この作戦は実際には成功したにもかかわらず、 作戦行動記録・戦果などの記述があまりなされていないようです。
68期存命のある方からおききしたのですが、 真珠湾攻撃、マレー沖海戦、メナド降下 −−と海軍の戦果が続くなかで 陸軍の戦果を交互に挿入する必要上 「シンガポール」「パレンバン降下」 (いずれも陸軍の戦果)まで「海軍のメナド降下」の発表しない情報操作に よる陸軍の横槍があつたーーとのことでした。
その後の戦記のアイテムにも「メナド降下作戦」はマイナー扱いになっているのは 残念に思います。
昭和16年の開戦時私は 国民学校一年生でした。その前年「志布志湾」での 大演習も記憶しています。
叔父政善の実家=私の実家で 鹿児島県大崎町は 志布志湾に面したところです。
来月帰省の機会に お墓参りをするつもりです。
海兵時代の 三浦政善についてなにか思い出がありましたら、ぜひお聞かせ ください。
 政善の実兄も存命していますので、伝えたいと思います。
よろしくお願いいたします。

東京都 Mさん

2005.4.5

はじめまして、 松永市郎氏の死去を知り、ネットをたどるうちにここへやってきました。
私の父は海軍兵学校77期。
最後の将校生徒です。 (78期を最後という意見もありますが、78期は予科。 兵学校長栗田健男中将より「海軍兵学校生徒を命ず」と下命されていません、いわゆるポツダム生徒ですね)
松永氏とは4,5回お会いしお話を伺ったことがありました。 最後にお会いしたのは3年程前の秋になるでしょうか。
77期の総会に来賓としていらっしゃったときになります。
いま、また隣国では反日運動が高まり、日本の行く末に不安を持つ向きも少なくないと思います。
そういう時期にまた貴重な方がお亡くなりになったのはとても残念なことです。
自虐史観から脱し、隣国に弱腰ではない筋の通った外交路線をとる日を迎えるように我々現役世代ががんばらねば、日本を思い命を捧げて散華した英霊と、松永氏のような戦後日本復興を成し遂げていただいた方々に申し訳ない気持ちで一杯です。
余談ながらお便りのコーナーで2005.2.16 T氏が「横須賀海軍兵学校」と言っていますが、兵学校は江田島 戦争末期に生徒の増員で大原・岩国・舞鶴にも分校ができましたが、横須賀にはありません。
「海兵団」の誤りではありませんか。

埼玉県入間郡  Kさん


2005.4.1

旧海軍軽巡洋艦「球磨」の戦友会のかた、または其のどなた様かを御存知の方いらっしゃいましたら大変恐れ入りますが小生まで御連絡賜りますようお願い申し上げます。

福島県 堀 龍一  (氏名掲載可)


2005.3.27

はじめまして。 素敵なホームページですね。
僕は、伊号400の搭載機であった、晴嵐をプラモデルで作っているところなのですが、 やはり、伊号から発進するところが、素敵と思いました。
晴嵐が伊号にのっていたことは、よく語られているのですが、 カタパルトの写真とかをみたことがありません。水上機のフロート部分とかをどうやってカタパルトに 固定していたのかなどの図があれば、自作して再現したいのですが、何か資料や情報を お持ちではないかと思いメールいたします。
もしご迷惑でなければ助けると思って返信していただけるとうれしいです。

呉市に在住Hさん



2005.3.24

はじめまして。
初めてこのページにお邪魔させて頂きました。
私はいま十七歳です。
何十年も前に生まれていたら、私もこの年で 戦争に加わっていたことでしょう。
やりたいこと、目指す夢への努力が 何の束縛もなくできるのは、本当にありがたいことです。
私は歴史、とりわけ幕末から太平洋戦争における当時の日本と諸外国 の関わりにとても興味があります。
教科書では教えてもらえないことも多く、 こうして本やインターネットの利用で自分の納得いくまで調べています。
戦争のことを詳しく知らないのは、とても恐ろしいことだと考えています。
このページは本当に私にとって為になる内容のものでした。 これからも頑張ってください。  
では。

Sさん


2005.3.15

はじめてメールします いつもホームページを読ませていただいております
わたくしは、宮城県仙台市に住む50代の男性です戦後うまれですが戦争の話は親父があまりしたがらなかったのでほとんど知りませんでした
親父は満州で終戦を迎え 当時のソ連に抑留されシベリアで昭和24年まで強制労働させられたということでした。そのご舞鶴へ復員して私が誕生するわけですが。  
戦争はしたくてしたわけではないとおもっています。日清戦争にしても、日露戦争、大東亜戦争にしても相手からけしかけられてやむおえず戦ったというのが真実ではない かなと考えます。私たちの世代では学校の先生は戦争のことは歴史のじかんなるだけ足早にすぎさりなるべく触れたくないいわば古傷のようでしたしたがって 学校での戦争にかんする記憶は余りありません。
ここ最近インターネットネットを通じていろいろ戦争について勉強しました。 国を守るのは国民の義務だと思います。戦争に反対するまたはやるべきでないという人々ももし敵が攻めてきたらどうするのかということをかんがえるべきです。  
確かに日本に侵攻された国々の人々は大変な目にあったわけですが。当時の世界情況からはこのような平和な状況が想像できなかったわけですから。
米国は、対日経済封鎖政策をとりまた日本人移民にたいする差別を国を挙げて実施したわけであります。さらに日清、日露戦争で築き上げた日本の領土を 全て返還せよ、要するに全日本軍海外から手を引けというものでした。
これらの要求をすべてのんだとしてもさらなる対日不当要求をつきつけて属国になるまで 許さないと思えるくらいの強行なものだったらしいのですわたくしがもうすまでもないことですが。 日本はぎりぎりのところで対米戦を決意したと思います。
また米国には米国なりの対日戦争の必要性があったのだと最近になってわかりましたそれはヨーロッパ戦線がかな り切羽詰まっていましたが米国民の厭戦気分がはれず業をにやしていましたそこで目をつけたのが日本をけしかけて先に手を出させることだったのだと思います。
真珠湾が攻撃されるとまではよんでいなかったかもしれませんがこれをきっかけにして米国はなだれをうってヨーロッパへ極東へ進軍させたのです私はルーズベルト がそういう意味でいまでもきらいです。
ながくなりましたが、ホームページ楽しみによませていただいております今後とも頑張ってください。


仙台市  I様


2005.3.2


三輪中将のことよく知らないのですが奥様が私の母、(92さい、認知症、)のおばだったか、従姉妹だったか、ちなみに岡山出身。
何の興味もないか・すみません

岡山県  S様

2005.2.16

駆逐艦「夏雲」の乗員の方へ

はじめまして、どうぞよろしくお願いします。
私の父は90歳になります。
「夏雲」に乗り南方海域で作戦中、米軍機の爆撃を受け奇跡的に救助されそうです。
終戦は、霞ヶ浦で迎えたとのことです。
実家には、夏雲の高速走行試験の写真が飾ってあり父の誇りでもあるようです。
母は、昨年なくなり今は、東京で一人住まいです。体もだいぶ弱ってきましたので一度、夏雲に乗っていた人たちに会わせたいと思っております。
戦友会などありましたらどなたかご紹介していただければ幸いに存じます。                                            平成17年2月  茨城県在住 長男より 

茨城県 I様 


2005.2.16


初めてご連絡させて頂きます。
私は、東京都在住のTと申します。
今回、故源田実参議院議員の埋葬されている寺社を探して いる際に、こちらのHPへ辿り着きました。
私の実父も、少年飛行兵で最後の横須賀海軍兵学校を出ております。
また、私の仕事関係で繋がりがある社長は井上成美氏のお孫さん。
私は1964年生まれで、須磨さんとは同年代になります。
実父は、リタイア後若くして亡くなった戦友たちの巡礼をするのが いまの楽しみ(?表現が正しくありませんが)でもあり、78歳という 年齢を考えると生き残った友人達も年々少なくなり、寂しい思いと 戦争経験を自分なりにまとめ、最後は海に遺骨をまいて欲しいと 希望しているようです。


さて源田実氏が埋葬された寺社が判れば代わりにお参りをさせて 頂きたいと思いました。
生憎、私には西日本地方に親戚・知人が居りません。
昨年2004.2.22に投稿された方の 『私自身、大学生時代は、選挙の度に、源田実氏の応援活動をしていま した。 私の父は、関西地区の秘書をしておりました。』 部分を読み、この方と連絡もしくは寺社が直接判るのであればと思い、 不躾とは思いましたがメールを出させていただきました。

お手数ですが、ご返信下さいますようお願い申し上げます。
ご子息の病気のことも読ませていただきました。
同じ親として大変なご苦労もあったかと思いますが、今は健在に 過ごされていて何よりと嬉しく思います。
子供は、元気なのが一番嬉しいものですね。

東京都 T様


2005.2.4

1. コルベット艦の初代 「金剛・比叡」の外舷の塗色は、白の写真が多いのですが、「樺島勝一」画伯のペン絵(世界の艦船 別冊)では、どう見ても黒あるいは暗色のようです。
史実に厳しい同画伯のことなので、白色でなかった時代があるのでしょうか?
2. 日本海軍の軍艦で、最初に白熱電灯を艦内照明に使用したのは、砲艦「筑紫」だと読んだことがありますが、ほぼ同時代の「金剛・比叡」はどうだったのでしょうか? 
あわせて白熱電灯以前の艦内照明は何を使っていたのでしょうか?
Mさん


2005.1.28

日本人はもっと世界平和に貢献できたでしょうね・・・・

abvさん


2005.1.19

日頃より楽しく、また興味深く拝見しております。
わたしは我が国の国防に関心があり、また憂いを感じている者のひとりです。
さっそくですが教えていただきたいことがあります。
旧帝国海軍の戦艦で、敵襲を受け浸水しつつありながら 沈没するまで砲を未だ敵航空機に向けて撃ち続けた、 という記述をどこかで読み、大変感動いたしました。
しかしそれがいったいどういう名前の船なのか 記憶がありません。
強く記憶しているのは 船体が大きく傾き既に半分以上沈没しているにも関わらず (おそらく砲手も海水に浸かっている?)まだ空に向かって 撃ち続けているという、勇猛果敢なイメージです。
呉で着床した「日向」ではないか?とおっしゃる方もありましたが 何となく違う気がいたしております。
どこで読んだのかも記憶がなく、知識がないため検索も上手くできず 今日に至っています。
ご多忙中誠に恐縮ですが、豊富な知識をお持ちの管理人様に ぜひともその武烈極まる船の名を教えていただきたく お便りした次第です。
気長にお返事をお待ちしておりますので どうぞよろしくご教授くださいませ。

名古屋市 ASより



2005.1.17


お初におめにかかります。
私はSと申します。階級は海軍少尉です。
さて、大日本帝国海軍の顧問をしてらっしゃる松永市郎さんを私もよく存じ上げております。
じつは私は松永さんの「血のつながらない娘」の1人でありまして、松永さんを「お父さん」 奥様を「お母さん」と呼んでおります。
さて、松永さんが入院されておられるのを、つい最近知りまして、居ても立ってもおられず急遽、 入院先の病院に友人の及川大将と見舞いに行きました。
お母さんが言うには、せっかく見舞いに来られても顔と名前を思い出せないでいるとか・・・で、 私も心配していましたが、私の顔と名前はしっかり覚えておられてホッとしました。
今度の土曜日も、「ネイビークラブ21」というサークルの理事長さんとお見舞いに行きます。
お父さんの背中や手をさすったり、お話をしたりして元気になってもらえれば・・・と、願っております。 もし差し支えなければ、そちらでのお父さんの今までの様子を聞かせていただけないでしょうか?
宜しくお願いいたします。

Sさん
今までの様子を聞かせていただけないでしょうか? 宜しくお願いいたします。


2004.12.4

私は昭和16年生まれの今年63歳です。
戦争体験は有りませんが、旧海軍に関心を持ち本と云えば戦記物ばかりです。
もちろん松永さんの本も持っております。戦記作家で有名な松永さんの同期の豊田さんが亡くなりかなり月日が経ちます。
もっと語り継がれる事を希望していただけに残念です。
松永さんにはおとうさんで有る松永少将について出版して頂きたく思っております。
68期の方がかなり亡くなり松永さんにはもっと長生きされ、戦記やエッセイ集の出筆活動を期待しております。

座間市 Mさん


2004.11.25

初めまして、五十嵐といいます。
私も第二次世界大戦の飛行機ネタでホームページを 作ろうと思い、いろいろ情報を集めています。
貴方のHPで、橘花の最後が 滑走路の末端に達し、あわや止まるかと思う瞬間、海岸の崖から海の中にボチャン。 さいわい、崖も低く干潮であっ たためパイロットは無事、橘花は引揚げる余裕もな く潮が満つるともに海面下に沈んでしまった。 と記載されていますが、私が読んだ雑誌(丸)に 「場周の溝に脚をとられ砂地にエンコしてしまった。」 と記載されていました。
諸説がいろいろあって、悩んでいます。
やはり海に落ちたのでしょうか? 脚が壊れてへたりコンタだけなのでしょうか?
もしご存じでしたら教えてください。
よろしくお願いします。

備考:親戚が特攻隊員でした。独立飛行第23中隊所属です。

HEAVENさん


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