奇蹟の闘病記-No.1


 私の息子は「なーくん」といいます。現在6才です。かれは1994年8月、弟から麻疹(はしか)を移されて、顔中が赤い斑点だらけになりました。  この年は日本中が記録的な猛暑で熱帯夜が連日続く中、かれは麻疹性脳炎、髄炎、髄膜炎、肺炎の四つの病気にかかってしまいました。  その中のどれ一つとっても
五才の子供には致命的な病気を一度に四つも、罹ってしまったのです。  担当の主治医はわたしにこう言いました。「おとうさん、男同志だから忌憚のない意見を言います。精一杯やってみますが、90%命の保障はありません、残りの10%もおそらく重度の小児マヒを覚悟して下さい」と。  現在かれは、その後のリハビリの効果も手伝って、全くふつうの子と変わりません。
 そのかれの軌跡(奇跡)を、みなさんに伝える事により世の中の同じ症状をもつ子供のご両親に少しでも心のささえになってもらえれば幸いと思っております。


               ・・ 目 次 ・・

1  発病まで        10 日吉神社とお地蔵さん    20 退院
2  前日の深夜       11 家族の愛          おわりに
3  大学病院に運んだ時   12 真夜中の病院
4  8月15日の夕方    13 焦り
5  次の日の朝にかけて   14 奇跡
6  昏睡状態        15 ささえ
7  人の命とは       16 回復
8  先生の言葉       17 リハビリ
9  般若心経        18 車椅子
10 日吉神社とお地蔵さん  19 子供の回復力
    


          
・ 1      発病まで       ・
          

・1994年8月13日 土曜日  夕方4時ごろ・

 「おとうさん、なにしてるの?」
 「んー?二階のお父さんのお部屋かたずけてるんや」
 「そしたらおわったら、くもんしきいっしょにしよーよ」
 「なーくんは病気なんやから、静かに寝とかなあかんねんで。まだ熱があるやろ。
お父さんが布団を二階に敷いたるから早く寝なさい。」
 「はーい」
 このあと、私が敷いた布団で二時間ほど横になっていたが、なかなか寝付けないらしくわたしのことが気になってか隣のわたしの部屋に来ていた。
 「しゃあないなあ、寝なくてもいいからおとなしくしときや。」
 その言葉で自分の机で公文式の時計のドリルを一人で書いていた。
 「この針は何時?」「これは八時半?」とか聞いていたが、わたしは物の整理に忙しくて生返事しかしなかった。
 まだこの時のなりゆきはは階段の手摺りを滑るくらいの元気はあった。

・夕方7時ごろ・

 「おとうさん、おなかすいた」
 「よっしゃ、いっしょに食べよう」といって普段どおりの食事をした。
・11時ごろ・

 このころはなりゆきはもうすでに一階の居間で寝ていたが、この日はシューレビー彗星群の地球接近の日で、私は外に出て星空を眺めていた。

・深夜12時ごろ・

 私が夜食にラーメンを食べているとモッソリ起きてきて「いっしょにたべる」といったので、半分わけして食べた。
 これが思えば元気になるまでの最後の食事であった。
 その後外で星を見ていたわたしに「いっしょにほしを、みたい」といったが、お母さんに「もう寝なさい」といわれそのまま一階の居間に寝た。
 この夜もかなりの気温であった。

・8月14日 日曜日  朝10時ごろ・

 「この子まだ寝てるわ、病気なのに昨日ずっと二階にいたのがよっぽど疲れたのね」
 「ほんまやなあ......まあ、はらが減ったらおきてきよるわ、だいじょうぶやろ」
 この日は、結局一日中、居間で寝ていたのであった。

・夕方7時ごろ・

 テレビのウッチャンナンチャンを見ながら焼肉を食べている時まだなりゆきが起き てこない事に不思議を感じた。人一倍ご飯のスキな子が、全然起きないのである。
 「大丈夫かなあ、ぜんぜん今日ご飯食べてないけど・・・」
 「だいじょうぶやろ、寝てたら治るやろ。」
 思えばこの時に気が付くべきであった・・・


          
・ 2     前日の深夜       ・

         

  ・1994年8月15日 月曜日  深夜12時・

 「おとうさん、なりゆきまだ、ねたまんまやねえ、本当に大丈夫かしら、もしものことがないように病院連れてってくれない?」
 「そんなに心配やったら、すぐに緊急病院連れていくわ、保険証かして」

・12時30分・

   ぐったりしたなりゆきをかかえて車に乗せて、高槻市立三島救急病院に到着した。
 だっこする時に手をクビの下にそえる時に「イタイ、イタイ」といっていたのが  みょうにひっかかった・・・
 その日の担当の先生はインターンかなにかのの若い人であった。
 麻疹で、熱が四十度近くずっと続いてる旨と、今日は一日寝ていてほとんど何も食べてない旨を告げた。
 看護婦さんが言った「体温を計りますから、体温計を脇の下にいれて3分ぐらいたって数字を報せて下さい。」
 その間、待合室のベンチの上でグッタリしたなりゆきの脇の下に体温計を入れて計ったら、39度5分あった。そしてほとんど目もあいてない意識の半分ない状態で先生に診てもらった。
 「麻疹の熱が、日中のこの暑さですので下がらないんですね。ご飯を摂っていないので、点滴を普通より多めに500ミリリットル注入しておきますので、これで大丈夫でしょう。」
 「注入には2時間ぐらいかかりますが時間は大丈夫ですか?」
 「はい!そんな事いっておれませんので早くおねがいします。」
 年配の看護婦さんが目元と鼻、口をていねいに拭いてくれた。
 そして「ボク、チョット痛いよ」といって点滴の針を刺した。
 その時もなりゆきは無言であった。

・午前 2時30分・

 500ミリリットルの点滴の注入が終わり、支払いが済んで、車に乗せる時、うわごとのように「いたい、いたい」と言っていた。
 その言葉が退院するまでの最後の言葉であった。
 家について居間に横たえた。
 心の中は「医者が、ああ言ったことだし、処置として点滴も打ったんだからもう大丈夫、一晩寝れば元気になるだろう」という安堵の気持ちで床についた。
 この時の判断がのちのち悔やまれたのであった。


           
・ 3    大学病院に運んだ時    ・

       

・8月15日 月曜日   朝8時・

 「ちょっと、なりゆきのおなか、へんよ。」
 「ほんまや!なんでこんなに、ふくれてるねん。きのうの点滴の水分よう排出できへんのとちゃうか」
 「早く医大病院つれていこ、はよ診てもらわんとえらい事に成るんと違う?」
 私はなりゆきを急いで車に乗せ、高槻駅前の大阪医科大学付属病院二階の小児科へ駆け込んだ。
 着くなり小児科の先生がなりゆきの症状を見て「これは、いかん!お父さん、なんでここまでほっといいたんですか?はやく!意識レベル300や!このままやったら死ぬぞ!ぼく!ぼく!きこえるか?ぼく!」
 このやりとりと、看護婦さんの異常な対応に妻は気を失いそうになっていた。
 「とにかく、入院の用意や!酸素マスクを早く!小児病棟の空きはあったか?」
   「いえ!今、いっぱいです」
 「そしたら緊急やからいうて四階の内科をあけてもらってくれ、大至急だ!」
 「膀胱洗浄をするから、パイプとバケツ持ってきてくれ、もう膀胱と括約筋が機能していない!レベル200やから、脳からの司令がストップしてるんやなあ....はよせなあかん!!」
 「先生、どうなんですか?」このやりとりを聞きながら私はおそるおそる聞いた
 「おとうさん、あと1時間遅かったらこの子は確実に死んでました。意識レベル200というのは相当ひどい状態です。しかし今でも何とも言えない状態です。なんとかできるだけの事はしますが・・・」
 「ほんとですか!!なんとか先生、お願いします。」
 「わかってます、お昼から頭部のスキャナーを撮影しますので詳しい判断はそれからです。2時から背中の髄液を採取します、とても痛い処置ですが本人はこの状態だと痛みは感じないでしょう。結果は夕方お知らせしますのでその時は、お父さんお母さん両方揃って聞いて下さい。だいたい6時位になります。」
 この言葉を聞いて「なんという事になってしまったんだ」という無念の気持ちと、「じゃあ、昨日の救急病院のあの処置はいったいなんだったんだ」という憤りの気持ちでいっぱいでした。
 ただ、まだこの時には「といっても、危機一髪で連れてきたんだからなんとかなるだろう」という期待をこめた気持ちがまだあった事は事実です。
 その甘い気持ちは夕方には完全に消し飛んでしまうのですが・・・


            
・ 4    8月15日の夕方     ・

          ・八月十五日  午後六時・

 大阪医科大学付属病院4階内科
 9枚の頭部のスキャナー写真をパネルに貼った部屋にて
 「見てください、高熱で脳がパンパンにふくれ上がっています。そしてまわりを圧迫しています。イタイイタイといったのはこのためです。ここの部分が正常なところで、黒い部分がいかに大きいか比較できるでしょう。」
 「で、先生どうなんですか?」
 「とにかく今は熱を下げる事です、そして呼吸器もマヒしていますので酸素と窒素の含有量を逆にした空気を吸入します。これによって、呼吸器の負担がだいぶ楽になるはずです。まあだいたい3週間位この状態にしておきます。」
 この時先生の「3週間」という言葉に「えっ、そんなに長いの?」と思ったが事態をまだよく理解できてなかったのである。
 「現在の状況は、はしかの熱によって、視覚、聴覚、嗅覚を支配する脳と手足の動きを支配する延髄が炎症を起こしています。このまま放置すれば、全部の機能がマヒするところでした。処置としては、まず、はしかの菌を除去する事と、肺炎も患ってますので呼吸器をいったん止めて人工呼吸器をつける事の同時作業です。」
 「先生、呼吸を止めるといいますと?」
 「いったん、強力な麻酔で眠らせてしまうんですよ、ラボナールという麻酔薬ですが呼吸機能も眠らせるほど強力な薬です。」
 「そんな事をして先生、大丈夫なんですか?」
 「大丈夫です、本人もそれが一番負担がなくて楽なんですよ。そして眠らせている間にはしかの菌を除去します。」
 「どんな方法でやるんですか?」
 「そこでお父さん、お母さんに許可をいただかないといけないんですが・・・」  このあとのこ答えが正直、聞くのが恐かった
 「お父さん、ガンマ・グロブリンを使わせて下さい。現在の医学ではこれしか方法はないんです。」  「何ですかそのガンマ・グロブリというのは?」
 「はしかに、効くとされている、薬なんですが、ただ人工血清剤ですので、場合によっては血友病とかエイズとかの、病気になる可能性がゼロではないんです、ただこの薬を使わずにいたら、かなり厳しい状況ですので急ぎ決断してください。ただこの子に従事する看護婦の中に、まだはしかにかかっていない者がおりまして彼女らも全員このガンマ・グロブリンを打つ事は了承しております。」
 「ちょっと考えさせてください。おいどうする?」
 「どっちにしてもそれしか方法がないんでしたら、お願いします。その看護婦さんですらリスクを負っていただいているのに当の本人が拒否する理由がありません。」
「わかりました、じゃあさっそくその手配をいたしますので、待合室でお待ち下さい。」
 その後、「なりゆきくんの担当の医師を紹介します」といって主治医が山口先生、そしてさきほどの田中先生と飴本先生が紹介された。
 「このスタッフでなりゆきくんの、治療をします、全力で取り組みますのでどうかご安心して下さい。」
 この山口先生にこの後、わが子の運命を委ねたのであった。わたしより2つ下の若い先生であった。聴診器のケロッピのシールが妙に似合っていた先生で、同年代のせいか、治療以外の話もたいへん盛り上がった気のやさしい方であった。

・午後9時・

 4階の4号室にて
 この4階の4号室というのが最初から気になっていた。あまりにも悪い番号である。
 その部屋に入ると、点滴をつけて、吸引マスクをされたなりゆきが、横たわっていた。
 「なーくん、わかるか。おとうさんやで」
 ずっと眠っているので返事はなかった。
 時々マスクが邪魔なのか手で振りほどこうとしてそのたびにマスクが取れた。
 それをまた元どおりにもどすのが仕事であった。
 看護婦さんに「マスクをいやがっているのでなにか方法はないですか?」と聞くと
 「ビニールで立方体の小さな部屋をつくってそこに酸素を供給する方法がありますが、あすの朝になります。それまでは、ご面倒でも手で添えてやってて下さい。」
 「今、意識はあるんですか?」
 「意識は麻酔がきいていますから、ほとんど無いですが明日打つ、ラボナールよりは軽いので痛みとか気になることには少し反応しますよ。」

・16日午前4時・

いきなりなりゆきがしゃべった「お父さん、ぼく足がなくなった夢みたよ。」と。
 しゃべった事もそうだが、その内容に愕然とした。
 「かわいそうに、とうとう下半身の機能がなくなったんだな。」と思うと涙がとめどもなくあふれてきだした。
 「もう使われることはないんだなあ」と思い両足を、ていねいにさすった。
 看護婦さんが、「今、確かに話しましたよねえ、話できるはずはないんですけど・・・」
 それっきりなりゆきは無言であった。今思ってもあの時の発言は、なんだったかと不思議に思う。

・朝10時・

酸素吸入室がつくられて、頭からスッポリ部屋ができてそこに酸素を送りこまれるようになり、本人も安心したのか、ぐっすり眠っている。
昨夜電話でなりゆきの急変を伝えた神戸のおじいちゃんとおばあちゃんが、やってきた。
いきなり外でトラックのクラクションが鳴ったときにそれは起こった。
「ワーア、キャアーア、ブーン」まるで獣のような叫び声を挙げはじめたのである。
 目はロンパリでどこを見ているかわからない状態であった。  この状態には全員が驚いた、というより「ついに、アホになってしまった」という、いいようのない敗北感にさいなまれたのであった。
 おじいちゃんが「かわいそうで、見ておれん」とポツリといった。
まわりで、音がしない時は静かであるが、顔の形相はまるで今までとは違っていた。
「なーくん、お父さんやで、わかるか?」と聞いたら、目をつむって「ウン、ウン」と首だけ振っていたことが唯一の救いであった。
 「まだオレをお父さんと認識できるだけの知能はあるんだ」と思い、しかしなぜこの子がこんな姿になってしまったのか、運命を呪った。「なにも悪い事はしていないのに、天罰ならオレにきてくれ」と、心の中で何度も叫んだものである。
 この夜はほとんど一睡もしなかった。(できなかった)
 この時思いだした事は2つあって、1つは、5月の社内旅行に連れていった時の事である。
 この時みんなで白浜に行った際に、神社にお参りしたのである。
みんなほかの子がおもちゃ買ってほしいとかお祈りしている時になりゆきは「死んだらお墓に入れますように。」と言ってほかのみんなを驚かせたのである。
それと2つめはわたしのメガネの事である。2つあるガラスのうち1つが無くなったのである。2つともなくなる事はあっても1つしか無くならないのは不思議に思っていた。
 わたしの子供は2人いるので、気になってしかたがなかった。


・・おじいちゃん談話

 これがあの元気な孫の姿なのか?
 なんと腕と足に何ヵ所も薬を投入されてベットに横たわっている姿を見て変われるものなら変わってやりたいと思った。
 なんとか助かってくれ、あの元気な声で「オジイチャン」と呼んでくれ、とただただ目頭が熱くなった。
 重い心を病室に残し、泣き続ける妻に「なりゆきも頑張っている、わたしたちも息 子夫婦にこれ以上負担を掛けぬよう、二人でできるかぎりの応援をしよう」と決断し夜の看護を引き受け、わたしが折紙に「なりゆき元気になれ!オジイチャンとまた山登りしよう」と書き、妻がその紙で、涙を流しつつ鶴を折った。
 目は点滴の薬量と体温、呼吸状態の目盛りをずっと見つめての作業であった。
 素人故、不安でいっぱいでした。
 自分も小さいころ麻疹にかかったが、その時は広い部屋で寝かされて、障子ごしに聞こえる近所の子供たちの遊ぶ声が気になって、寝れなかった。
 顔はブツブツができて熱はあったが、起きて障子の穴から近所の子供たちを覗くぐらいの元気はあったと思う。柱時計の文字盤が消え、振り子のが左右に振れる鈍い光と、音のみが聞こえ母が、夜風に当たるとよくないと雨戸を早めに閉め、厚めの布団を掛けてくれた。
 雨戸の節目から差し込む夕日が外の風景を逆さに障子に映していた。
 このような状態で2日ほど寝たら簡単に治ったので、まさか麻疹で死んだり、マヒしたりするとは考えてもみなかった。


・朝11時・

 「このままでは、脳に酸素が供給されてない状態ですので、本人の負担を軽くするために昨日言ったように、呼吸を止めます。処置のあいだは、出ていて下さい。」
 「いよいよ、眠らせてしまうんだな」と思うとなにか今生の別れのような気になってまた涙があふれてきた。
 「ああ、なんでこんな事に、なってしまったんかな。うちの孫がこんな事になるなんて夢のようやわ、悪い夢でも見てるんかいなあ」とおばあちゃんが言った。
妻はもう半狂乱状態であった。それぐらいひどい形相であったのだ。
「ちょっと、喫茶店で話しない?」と妻、「ああ、かまへんよ」とわたし。
「わたしは、もう覚悟ができました、死ぬかたぶん重度の小児マヒになると思う。そうなってもこの十字架は一生背負っていくつもりになったわ」
 「おまえだけやない、二人の十字架や、今までひとごとのように思っていたのが自分たちの子供に来るとはなあ」
 「今から郵便局の保険の内容調べとくわ、重度障害の場合の保障金額も」
「だけど昨日たしかにうわごとのように、なりゆきはしゃべったんやけど、あれは夢やったんかなあ。でも看護婦さんもきいていたんやけど・・・」
 「人間は死ぬ前に、いきなり立ち上がったり、しゃべりだしたりするそうよ。そのたぐいじゃあない?」

・午後2時・

 「処置がおわりましたので、入ってください」といわれて入室した時、その光景に圧倒されてしまった。自分の息子がまるでマリオネットのような姿でベットに横たわっていたのである。
 右手からは薬剤投与用のチューブ、右太股からは血液剤投与のためのパイプ、鼻からは、栄養剤投与のためのパイプ、オチンチンは採尿のための管、そしてひときわ目についたのは、口からの酸素吸入用の太い管が機械に直結していた光景である。その機械は「シューシュー」と規則的な音を病室に響かせていた。
 「処置は無事終わりましたよ。今、かれは呼吸の機能を止めてあります。この酸素吸入機によって生かされています」
 「息がとまっているのか、まるで仮死状態だなあ」と正直その時は思った。しかしこれが現実に自分の息子の姿だと認識するまでにかなりの時間がかかった。

・午後7時・

 いつもであれば、いっしょに夕食をとる時間なのになりゆきは、パイプだらけで、「シューシュー」と音をたてている機械の横で、眠っている。
 規則正しく機械の鼓動に合わせて胸が上下している。
 唯一彼が生きている証拠は、ビニールにたまっているおしっこの量が増えていることだけである。
 看護婦さんが時折やってきては、心拍数と血圧をチェックしていく。
 「なりくんは、普段はどんな子ですか?」
 「ええ、もうとにかく元気な子で、いつもはだしで走り回っているんですよ。電車が好きで毎日寝る前に、図鑑を見て全部の電車の名前を知っています。こんな事になるならもっと、たくさん電車に乗せてやったらよかったとつくづく思うんです」
 「大丈夫ですよ、きっと元気になりますよ」
 時々「ピーッ」と機械の音が鳴る。
 ドキッすると、点滴のチューブに小さな空気がはいっている時である。
 あと麻酔薬「ラボナール」が残り少ない場合もそうである。
 慣れるまでこの音には常に、「ドキッ」とさせられた。
 それと1時間に1回くらい、呼吸器の吸引の作業があって、いったん呼吸器の管をぬいて、ピンセットでさらに小さいパイプを管の中にとおして、吸引してつまったタンや、つばを「ズズズズッツ」と、取りのぞくのであるが、本人はその作業中かなり痛いらしくて作業が終わった後は両目がじわっと涙ぐむのであった。その姿が不憫で、かわいそうでならなかった。

・午後9時・

 「なーくん、軍艦トランプしような。こっちは戦艦大和、巡洋艦摩耶、空母加賀、戦艦長門、駆逐艦雪風や。なーくんは、空母飛龍、戦艦陸奥、戦艦山城、巡洋艦大淀、巡洋艦高雄でなーくんが6点勝ちや。次いくで・・」
 「図書館で借りてきた紙芝居読んだげるわな、てんとうむしのテムの話や。ええか、読むぞ、てんとうむしのテムは森のなかに住んでいました・・・・」
 無言で横たわっている息子の頭をなでながら読んでいると、涙がボロボロでてきて止まりませんでした。
 「もっと、元気な時にいっぱい紙芝居読んであげたかった・・・プールへ行こうと言ったとき連れていってあげればよかった・・・プヨプヨのゲームもっとさせてあげればよかった・・・」と、次から次へと、いろいろしてやれなかった事を回想しては、「ゴメンナ、ゴメンナ」と心の中で、大声で叫んだ。
 「このままもし、なりゆきが死んでしまうような事があったら、いったいこの子は何のために生まれてきたんだろうか?なにも悪い事はしていないのに、なんでこんな罰を受けなければならないのか」と山口先生に回診の時に尋ねた。
 「お父さん、人間のこの世は刑務所なんですよ。前世で悪い事をした人ほど、現世では長生きさせられるんですよ。いいことばかりしてきた人は刑期も少なくて若いうちに死んで、苦しみから早く開放されるんですよ。それに、死んでしまうなんて事はさせませんのでもっと前向きに考えて下さい。なりゆきくんは今ガンバッテ戦っているんですよ」
 先生は医者でわたしは医者じゃない、つまりわたしはここにジッと座っているだけで、なんにもしてやれないんです。それがもどかしくってもどかしくってたまらないんです。あんまり宗教とかは信じないほうですが、こんな時は本当に祈ることしかできないんです。先生は祈りを信じますか?」
 「祈りをバカにしてはダメですよ。私は医者で科学の最先端をはしっているように思われますが実は祈りを信じているんですよ。アメリカの臨床実験でもデータがあって、3人のガン患者がいて、1人目はある宗教法人の教組、2人目は会社の社長さん、3人目はコジキだったんです。最初は同じ症状で進行具合も似たようなものでした。ところが教組には何万人という人が祈りをささげ、社長は何十人の人が祈りをささげ、コジキには祈る人がいなかったんです。この結果三人の進行具合に歴然とした差がでてきて、教組は全快しました、社長は何年かして退院、コジキは死んでしまったのです。ひとえに祈りのせいでもないかも知れませんが極端に違う結果というのは、そうない事なんです。」
 「じゃあ、先生、なんで全日本のサッカーがワールドカップ初出場をかけた最後のイラク戦で、日本国中が祈っていたにもかかわらず、負けてしまったんですか?」
 「それは簡単ですよ、イラク国民の祈りのパワーが勝っていたんですよ。むこうは祈りの本場ですから。」
 この日からとにかく治るまで祈る事に決めたのである。


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