奇蹟の闘病記-No.2


         
・ 5    次の日の朝にかけて    ・

、午前12時、

 「ウアー、ウオー」といきなり廊下で大声がした。
 と同時にバチャバチャとなにかがはいずり回る音がして、看護婦さんが二〜三名走ってきた。「お爺ちゃんまた、トイレ行けなかったの?廊下中オシッコだらけになってしまったよ、ハイッ、パジャマぬいできがえしまましょう。」たいへんな作業だ。
 白衣の天使とはよくいったもので、本当に自分の肉親でもたいへんな看護を夜どおし中他人のために尽くす姿は感動的であった。これから何ヵ月もの間、彼女達の奮闘ぶりをまざまざと見せてもらうことになる。
 明け方、となりの5号室からまた「ぎゃー」という大声と、ベッドをドシンドシンとゆらす音が聞こえてきた。看護婦さんがまた走ってきて、必死に4〜5人がドタバタあわてまくっていた。
 「今度はなんだ?」と思うまもなく、いきなり「シーン」となってしまった。
 聞くとガンの末期の患者だそうで、死ぬ前の断末魔の叫びであった。そういえば昨日の夜から待合室で家族の方がたくさん座っていたのがそうだったのか。おそらく今夜が山ですと、病院側の報せで集まっていたんだなあ。
 ちょっと時間をおいて、ドアを開けて見ると、死体を乗せたベッドをカラカラと看護婦さんが押していく姿があった。
 病院に寝泊りしてわずか2日目なのに、さまざまな人間模様を勉強させられた。
 厳格な「人間の死」というものに対して私は、祖母の時の一回しか経験していなかったのが、病院ではしょっちゅう起こっているんだなあと、感心したのである。
 トイレに行く時、ナースステーションの横を通る。そこにはオシログラフがあって、いつも「ピッピッピ」と規則正しい音が聞こえていた。
 それがなりゆきの心拍音である。病室から離れていても異常がないかどうか看護婦さんがすぐわかるようにここにセットされているのである。
 その「ピッピッピ」の音を聞く度に「おとうさん、がんばってるよ」というなりゆきの言葉のように感じられた。


        
・ 6     昏睡状態        ・

        、毎朝の日課、

  まず看護婦さんが四人来てのからだ拭き。
 この作業から一日がスタートする。
 最初に体拭きした時は、なりゆきはTシャツ型のパジャマだったのでたくさんのパイプが邪魔して、服が脱げない状態であった。そこでハサミで、Tシャツをカットしてからの作業であった。パジャマはその後、胸開きタイプのものを使うようにした。
 それと床ズレしないように体の向きをかえるのも目的であった。
 その時にたくさんのパイプ類が、邪魔して思うように体が拭けないんじゃあないか、と思ったがそこはさすがプロの看護婦さん、パッパと手際よくこなしていった。
 その時にオシッコの量と、ウンチの量を確認する。「なあくんよおオシッコしたなあ、がんばってるなあ」と生きている証拠を見る場面なので感動的であった。
 T字帯についてるウンチが、妙にいとおしく見えた。
 昏睡状態なので、本人が生きていると確認できる場面は、排泄物と目を開いて懐中電灯を照らした時に瞳孔がキュッと小さくなることである。胸の上下は機械によって空気が送られているため、彼の生命力とは無関係であった。
 わたしの仕事は各地から集まった鶴に糸をとおして100ずつにして吊る作業である。
 時々、ハプニングがあって、一度は痰が呼吸器に詰まり、脈拍が急に上昇してしまい、心不全の一歩手前までいき本当に慌てた。
 昏睡状態のまま、いろいろな薬を投与しているため、肝臓の負担が想像以上に大きいものらしく、肝数値を測定するのであるがその数値が一向に下がらない時があった。
 つまり薬物投与をやめなければ、先に肝臓がやられてしまうのである。神様はこの子に薬も与えてはくれないのか、とやり場のない憤りすらおぼえた。
 まさに四面楚歌の状態だなあと半ば諦めかけていたがその矢先に数値が戻ってきたので一安心。
 次の夜は交替で妻がつききりで看病した。
 翌朝、いきなり妻がわたしとわたしの父親に、「おとうさんたち、いまから四国に行ってお墓参りしてきてください。」とすごい剣幕で迫ってきた。
 理由を聞くと、明け方にかけて女の人の声で「さみしい、さみしい」という声が聞こえてきたそうである。
 その声の主を8年ほど前に死んだわたしのおばあちゃんの事だと思ったそうである。
 あまりの急な話なので、「今すぐ四国までは行けないよ」といっても本人はまったく聞き入れない状態であった。
 「いくつぐらいの声だった?」と聞いてもよくわからなかったので、高野山の館長さんに電話して相談にのってもらう事にした。
 新幹線の中であったにもかかわらず、館長さんは携帯電話で相談にのってくれた、妻とも直接話をしてくれた。その内容はどうも地縛霊が、人のやさしい心に呼びかけているそうである。
 さっそく大阪に帰ったらお祓いの祈祷となりゆきの回復の祈祷をしてあげるから安心しなさいというものであった。
 本当にそんな事が現実にあるのかどうか、疑わしいが全員がそれだけやさしい心になっていたのは事実であった。


        
・ 7     人の命とは       ・

 一度病室を内科病棟から小児病棟に移動する時があった。
 小児病室に一つ空きができたそうである。
 新しい部屋はナースステーションのすぐ隣でガラスごしに、なりゆきの心搏数、呼吸数の状態を逐一チェックできる部屋なので安心した。ただその移動はわれわれが予想した以上に困難であった。
 内科病棟と小児病棟とは、階が一階下でなおかつ平行移動距離がかなりあった。
 その間、電源がないのであるから、当然呼吸器のポンプは使えない、つまり手動の「パフパフ」と呼ばれる、ハチの尻みたいな格好をした呼吸器を押し続けていなければならなかった。
 この手を止めるとこの子は簡単に死ぬんだなあと思うと、人間の命っていったい何なんだろうと痛感した。
 第二時次大戦でドイツが六百万人のユダヤ人をガス室で殺した歴史を思い出した。
 六百万人の中にはこの子のような小さい子供も大勢いたはずである。
 そこで使われた青酸ガスを生み出したのも医学、今この子を救いにいってるのも医学と考えるとそのあまりの二律背反さに頭の中が混乱してしまいそうであった。
 「その時の貴重なデータの上に今の医学は成り立っている部分もあるんですよ」という山口先生の言葉で一応納得はした。
 たくさんのパイプを各看護婦さんが持って、「パフパフ」も手が疲れたら交替しながら、ようやくどうにか紫外線によって無菌状態にされていた新しい病室への引っ越しが完了した。
 余談ではあるが、翌年の1995年1月17日の阪神大震災をその後経験したが、神戸の市街地に入って驚いた事は、幹線道路の中央分離帯のうえにたくさんの布団がしいてあって、その上に死体が乗っていた光景を見たときである。最初は疲れて寝ているんだなあと思ったくらいであった。
 六千人の命を奪ったあの破壊力の恐ろしさをまざまざと見せ付けられた。
昨日まで生きていた人間が家につぶされたり、焼けたりして一瞬にして死んでいったのであった。
 あちこちで人を焼く火葬のにおいが漂う中で、これがはたして現実なのかどうかの判断ができなかった。この物語にでてくる神戸のおじいちゃん、おばあちゃんと自衛隊のヘリコプターの爆音の中を歩き回った時、「夢であってくれ」と祈ったものである。
 その時の医者の話で、岩木外科という先生がいて、本人も額から出血しながら、国道二号線上で、ならんでいる被災者たちを麻酔なしで、縫合していたらしい。
この時は病院の電源どころか、施設自体が破壊されていたため人口透析の患者たちの家族はそれこそ命懸けで「パフパフ」を押し続けた事であろう。その気持ちを思うとつらいほどわかるのであった。
 なりゆきの入院時にこのような事態が起こらなかった幸運を、感謝せずにはいられなかった。
 いずれにしても、2年続けて「人の命」について考えさせられる事態に遭遇したのであった。


        
・ 8     先生の言葉       ・

        

 「先生はなんで医者になったんですか?」
 「高校生の時にぼくは小児科になる決意をしたんですよ。」
 「えっそんなに早く小児科と決めていたんですか?」
 「ぼくは子供が大好きなんですよ。よく高校の時からボランテアで子供の施設に、お楽しみ会なんかを企画して行ったものです。で進学高校だったもので、がんばってこの子たちのような子供を直す仕事がしたかったので大阪医科大学を受験したんですよ。」
 29才でわたしより2つ下なのに、信念をもって職業をえらんだんだなという尊敬の気持ちと世の中の医者が全てそうであったらなあという気持ちで話を聞いていた。
 「先生、実はこの病院に担ぎこむ前に、三島の救急病院へ連れていったんですよ。やはり先生と同じような年のかたが担当で、診てもらったんですがその時の処置が点滴を500ミリ打っただけなんですよ。そして、『これで大丈夫ですよ』という言葉を信じていたら翌朝に、この症状だったんです。どう思いますか?先生ならその時どんな処置をしたと思いますか?」
 「その時のなりゆきくんの症状をみてみないとわかりませんが、おそらくその医者がそういう判断をしたのであれば、わたしも同じ処置をしたかもしれません。」と同じ医者なので半分かばいながらの発言であった。
 しかし山口先生ならばきっと別の処置をしてくれていたと確信する
 まず患者に対しての慈悲がなかったのである、夜分の勤務なので適当とは言わないまでも、サッサと済ませてしまおうという事務的な態度が、今思ってもむしょうに腹立たしい。
 時々。院長先生の回診というのがあって、映画のワンシーンのように院長がくるのを担当医、看護婦さんたちが整列して迎える「儀式」である。
 院長というのはこの医科大学の教授で小児学会では非常に権威のある人らしい。
 小児病棟に移ってまもないころ、この院長先生の回診があった。
 神妙にかしこまっている山口先生を見るとふきだしそうであった。
 院長先生がおもむろにやってきて、なりゆきの手と頭にふれて、「安静にしておくことですね。カーテンもしめて部屋は暗くしてください、まわりでの会話も厳禁です。」と言っただけでサッサと帰ってしまった。
 「なんや、オレでもできる仕事やなあ・・・」と思って山口先生に尋ねた「部屋は今まで暗くしてなかったし、会話なんて目一杯してましたけど大丈夫なんですか?」
 「あんなもの、古い大昔の理論ですよ。昔の教科書にでている事をそのまま言ってるだけですからあてになりません、心配ないですよ。」と笑いながら院長が閉めたカーテンをまたさっさと開け始めたのであった。
 居合わせた看護婦さんたちが大笑いしていた。
 「医学に関しては日進月歩なので、権威のある人の言うことがかならずしも当たっているとは限りません。むしろ若いわたしたちのほうが、今の理論にかなった治療をしているんですよ。安心してください。」
 「先生、その言葉を直接院長に言ってくださいよ。」と冗談で言ったら
 「ご飯が食べれなくなりますので、わたしが偉くなったら言いますよ。」とのこと
 看護婦さんたちも緊張の糸が切れたのか、その後は悪口のいいあいとなって、寝ているなりゆきの横で安静どころか大騒ぎであった。
 院長先生、もしこの本を読んでいたらごめんなさい・・・


        
・ 九      般若心経       ・

 非常にありがたいお経です。
 入院中、毎日近所のお地蔵さんに行ってはこのお経を座って三回唱えました。
 253文字の中にいろんな意味の、言葉が含まれているそうです。
 まさにわたしの息子の命はこの言葉の集合体によって救われたと本当に今でも思っています。

「般若」と聞くと、能で使われる般若(鬼)の面を思い浮かべる方が多いのですが、これもサンスクリット語で「プラジニャー」を音写したもので「智慧」という意味です。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子佛説 実はこの『般若心経』というお経は、『大般若経』という600巻のお経を集約したものと伝えられています。
ですから「心経」とは、その膨大な経典の重要な部分を集約したお経ということを表わしています。
これらの解説をまとめると 「このお経は仏さまが説かれたもので、その内容は仏の世界へ行くため(仏になるため)のすばらしい智慧を集約して説かれています」という意味になります。
「佛説摩訶般若波羅密多心経観自在菩薩、観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子佛説、色不異空、空不意色、色即是空、空即是色受想行識厄部如是舎利子 是招法、空想、不想、不招、不滅、不空、不浄、不増、不減、是虚空色、無色無受想行識、無限尼日絶清尼、無色消香味足法、無限界、乃至無意識界、無無妙厄、無無妙尽、乃至無老死、厄無老死尽、無垢修滅道、無知厄 無得、以無省得故菩提薩多、得般若波羅密多、故心無気解、無気解、個有無恐怖遠里、一切転倒、夢想、空虚、涅槃、三世生仏、得般若波羅密多、故得亜能苦多羅三 脈三菩提、故知般若波羅密多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一 切苦、真実仏抗光節、般若波羅密多呪、即節取日、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅 祖羯諦、菩辞祖和可、般若心経」

 これを三回唱えて下さい。
47日間続けると悩み事が解決します。


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