【捷1号作戦(レイテ海戦)】

 

 先に話したとおり、我が海軍は「絶対国防圏」を死守すべく、あ号作戦を発動しましたが、真に残念ながら大敗を喫しました。他方、アメリカ海軍の損害は航空機百数十機に過ぎず、艦艇は全く無傷でありました。

 したがって、米海軍は直ちに、フィリピン攻略、レイテ揚陸作戦を敢行したのであります。わが連合艦隊はこの作戦を阻止すべく、昭和191018日、捷1号作戦を発動しました。

 この作戦の目的は唯一つ「栗田艦隊がレイテ湾に突入し、マッカーサー率いる揚陸部隊を撃滅する。」この一点であります。

 もし、この作戦に失敗し、米軍によりフィリピンが占領され、南支那海は米軍の制海、制空権下となり、日本は南方からの石油を始め重要資源が途絶し、たとえ艦艇、航空機を温存しても、総てスクラップ同然となり、遠からず日本は鉾を納めざるを得なくなります。

 すなわち、本作戦要領の大綱は、次のとおりであります。

 

 1. 第1遊撃部隊、すなわち栗田艦隊は敵の上陸地点、すなわちレイテ湾に突入し、敵の攻略部隊を撃滅する。

 2.  機動部隊本隊、すなわち小沢艦隊は、ルソン東方海上に進出し、敵

主力部隊を北方遠く牽制し、栗田艦隊のレイテ突入を容易ならしむ。好機を得て、敗敵を撃滅する。

 

 この作戦において、小沢艦隊は悲惨極まる犠牲を払い、見事に囮作戦に成功し、米海軍猛将ハルゼー指揮の敵機動部隊主力を遠く北方海上に誘導し、栗田艦隊にレイテ突入の絶好の機会を与えられたのであります。

 しかし、栗田艦隊はレイテ湾に突入しませんでした。

 今一つ、お話したいことは、栗田長官旗下の西村艦隊についてであります。西村司令官は栗田長官より「……1025日の黎明期に、主力に策応して、スリガオ海峡からタクロバン方面に進撃し、敵の艦艇及び上陸軍を撃破すべし……」との命令を受けます。

 そして、レイテ上陸作戦の援護部隊である戦艦6隻、巡洋艦8隻、駆逐艦26隻、並びに潜水艦部隊の敵艦隊に突入し、死に物狂いの海戦を敢行、勇猛に善戦しました。

 しかし、西村艦隊は旧式戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦4隻の小艦隊であり、駆逐艦時雨一隻を残し、他は全部沈没するという悲惨な結果に終わりました。

 しかし、敵の揚陸作戦支援部隊は西村艦隊との烈しい交戦の結果、弾丸等ほとんど撃ち尽くし、一時栗田艦隊がレイテ湾に近づいた時、米海軍は恐怖につつまれたと戦記に記載されている程、戦闘能力を失っていました。このように西村艦隊は全滅して栗田艦隊に対し、レイテ湾突入の絶好の機会を与えたわけであります。しかし、栗田艦隊はレイテ湾に突入しませんでした。

栗田艦隊は、友軍の非常な犠牲により、レイテ湾突入の好機を与えられながら、決行せず、独自の判断により、レイテ湾突入を中止する旨、連合艦隊司令長官に打電するわけでありますが、連合艦隊長官より、「……天佑を確信し、全軍突入せよ……」との厳令を受けます。しかし、栗田艦隊はレイテ湾に突入しませんでした。いわゆる謎の反転として長い間語り継がれて来ました。

私が昭和53年(財)水交会の会長になったとき、「水交座談会」を開催し、戦時中の先輩諸提督の貴重な経験談を聞くことにしました。その時栗田長官に依頼しましたが、出席されませんでした。代わりに栗田艦隊の小柳参謀長に当時の話を聞いた際、「……友軍からの情報、敵の状況、全く不明であり、もし突入すれば犬死である……」という意味の話がありました。

 ネルソン提督は有名な次の言葉を残しています。「……敵情不明の時は、敵艦に横付けせよ……」と。

 先に申したとおり、捷1号作戦でマッカーサーの揚陸部隊を撃滅できなければ、東支那海の制空、制海権は米軍の掌握することとなり、南方石油資源は完全に途絶し、艦艇、航空機も総てスクラップ同然となり、多くの指揮官もまた無用となり、遠からず日本は滅びるであろうと申しましたが、栗田艦隊の判断、決断の不適切のため、日本は急速に敗戦へと落ちていくわけです。

 もし、捷1号作戦において、先にお話しした絶好の時期に栗田艦隊がレイテ湾に突入し、マッカーサー揚陸部隊を猛攻、これを撃退したならば、皇軍の士気は高揚し、国力も回復し、最後の講和の機会を得たと思いますが、真に残念です。

 栗田長官は、その後、海軍教育の中枢というべき海軍兵学校の校長となられますが、私はこの辞令を聞き、真に不思議な思いを覚えました。

 昭和20815日、わが国は無条件降伏をしたわけですが、当時海軍兵学校岩国分校の教頭(分校長)の矢牧章少将が栗田校長の指示を得たいと考え、江田島本校を訪問したところ、栗田校長の真に異常な姿に接し、そのまますぐ岩国分校に帰ったという回顧談を水交座談会で話されました。

 栗田さんは、戦後一切の面接を断り、沈黙の余生を送られました。史記に「敗軍の将、兵を談ぜず」とありますが、更に「敗軍の将は以って勇を言うべからず」との言葉もあります。栗田さんが静かに当時の心境をお話しになれば、後世のため貴重な訓となったでありましょう。

 思うに本作戦ほど「国家の興亡」「戦の勝敗」を決定する作戦は他にありません。しかるに何故に連合艦隊司令長官は自ら陣頭に立たれなかったのでしょうか。何故でしょうか。

 

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