【ミッドウエー海戦】

 

 先程申したとおり、ハワイ奇襲はアメリカから見れば、だまし討ちであつたが、日本海軍、日本国民から見れば、緒戦における大勝利でありました。この錯覚した大勝利が、いささか日本海軍に対し驕りの心をもたらしたことは否定できません。

 このミッドウエー作戦が行われる前、横須賀あたりでは、この作戦の話が流れていたことは事実であり、アメリカにもその情報が掌握されていたのではないかと思われます。

 海戦の詳細は省略しますが、この海戦において我が方の損失は、正規空母4隻、航空機320機、戦死者3,500名でありました。これに対し、米海軍はヨークタウン1隻、航空機約150機の損失程度で、日本海軍は建軍以来初めて大敗を喫しました。この海戦以後、わずか半年にして日本は海上権を次第にアメリカ海軍に掌握されることになります。

 なぜ大敗したか。その原因は指揮官の合理性の欠如と驕りによるものではないかと思われます。すなわち、最初ミッドウエー島を爆撃するため攻撃機は全て爆弾を搭載しており、いざ出撃にあたり、敵空母来たるの通報により空母攻撃のため、急遽魚雷に換装するわけです。この兵装交換は印度洋作戦において山口多聞司令官が実験の結果、1時間以上の時間を必要とすることを確認しました。したがって、山口司令官は南雲司令長官に対し、「……速やかに発進するを可とす……」との意見を具申されたのですが、入れられず、この結果、兵装交換の大混乱中、敵航空機の攻撃を受け、己の魚雷、爆弾の大爆発により艦は次々に沈没したわけです。

 上に立つ者の合理性の欠如が、いかに重大な結果を招来するかの好例と思います。

 私はこの機会に皆さん方に是非話したいことがあります。それは、太平洋戦争中、日本海軍に壊滅的打撃を与えたアメリカ太平洋司令長官ニミッツ提督と、このミッドウエー海戦、並びにマリアナ海戦において日本艦隊を撃破したアメリカ機動艦隊司令官スプルーアンス提督について話したいと思います。

 敵将スプルーアンスは若い時、通信情報関係の士官です。日本海軍であれば、絶対に艦長や司令官にはなれない系統の士官です。しかしアメリカは人物本位で重要配置に抜擢します。

 私の知人で兵学校出身の優れた人物がいました。しかし、彼は通信で、遂に駆逐艦長にもなれませんでした。

 日本海軍は人事が硬直化しつつあり、砲術か水雷出身でなければなれないのです。人物本位ではありません。これも敗戦の一つの大きな原因でしよう。ニミッツ提督は尉官時、機関関係の士官であり、特にディーゼルエンジンの研究者で、優れた技術者でありました。したがって、民間の内燃機関係会社より優遇をもって迎えたいとの依頼があった程の人です。若い時、このような技術者であっても、長ずるに及び、指導者として相応しい人物であれば、米海軍はその者に最高責任者の地位を与えるわけです。なお、両提督は敬虔なキリスト教徒であったことを附記します。

 このような柔軟な人事行政が米海軍をして不敗の軍たらしめたと思います。我が陸海軍も日露戦争までは人事も極めて柔軟でありましたが、大正、昭和における人事は次第に硬直化したように思われます。

 私は今でも時々そう思うのでありますが、もしあの大東亜戦争中、松下幸之助氏のような人物が居て、その者を軍の最高指導者としたならば、日本は大勝していたのではないかと思います。否、大勝しなくても、五分五分の戦を展開し、有利な終戦を迎えたのではないかと思います。

 支那の古典司馬遷の史記の中に次の事が記述されています。「……優れた宰相は優れた将軍、優れた実業家に成り得る。優れた実業家は優れた将軍、優れた宰相に成り得る。優れた将軍又然りであると……」として、その実例を示して訓えています。

 私はミッドウエー海戦を思う時、あの勇壮な南雲中将の代わりに、合理的かつ知的な山口少将を最高指揮官に任用したならば、必ず大勝を納めたでしょう。真に残念です。

 しからば、なぜいつ頃から山口少将のような人が少なくなったのでしょうか。想うに日露の戦において日本海海戦の大勝をもたらしたのは海軍大臣山本権兵衛であります。この山本海相は明治392月まで在任し、その間「海軍軍備は海軍省主導、政治優先、合理主義」という海軍運営方針を定めました。

 以後各大臣、すなわち斎藤實、八代六郎が継承し、特に加藤友三郎が更に確固たるものにして、財部彪、村上格一、岡田啓介の各大臣に伝承します。しかし、昭和7年伏見宮博恭王殿下(大将)が軍令部長(昭和8年から軍令部総長)に就任されると、海軍硬派の意見により翌年3月「軍令部条例改正」並びに「省部互渉規定」を提案、昭和89月強引にこれを成立させます。平たく話せば、海軍兵力量決定等が海軍省主導であったものが、軍令部主導となります。 

この時、軍令部の南雲忠一大佐(後のミッドウェー海戦時の長官)と海軍省軍務局1課長井上成美大佐(後の大将)との論争は極めて烈しいものであったと聞いています。この時以後、いわゆる海軍の良識派と言われた人々が逐次退官し、強硬派とでも言うべき人達が重要配置を占めます。

 このようにして、日本海軍は、次第に日米戦争へと傾斜していくわけです。大東亜戦争前からの海軍人事は将来とも貴重な研究事項であると思います。

 

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