【ガダルカナル方面の戦闘】

 

 開戦にあたり我が帝国が決定した戦略については先程お話しました。すなわち、我が海軍はラボールを最前線とし、それ以西の太平洋諸島をいわゆる不沈母艦化し、敵の来襲に耐え、好機を得て航空機、海上戦の挑戦により、漸減作戦を強い、これを繰り返すことにより敵を屈服せしめるという、日本海軍の戦略を実行すべきであったと思います。

 しかるに日本海軍は大本営陸海軍部の作戦協議において、陸軍に何ら説明または通報することなく「ガ」島に飛行場の建設を開始します。そしてその争奪戦が展開し、陸軍も海軍の要請により、この泥沼戦闘にのめり込み甚大な損害を蒙ります。

 もともと陸軍参謀本部は、先に話したとおり、開戦時の戦略として海軍のラボール進出さえ猛反対したわけで、それより更に600浬も遠い「ガ」島進出など沙汰の限りとして、海軍の要請により「ガ」島進出に同意した陸軍省軍務局長佐藤賢了中将と、作戦部長田中新一中将とが激論の末殴りあうわけです。最後は当時の東条陸相の決断で田中中将を南方総軍へ転出させ、解決しますが、それ程この作戦は重大問題でありました。

 独断で「ガ」島に進出した海軍は、第1次ソロモン海戦より第3次ソロモン海戦、その他の攻防戦において、人員、艦艇、船舶、燃料等消耗の限りを尽くしました。そして約半年後、昭和182月、山本連合艦隊司令長官の「転進命令」により中止となるわけですが、しかし、山本長官が昭和184月戦死された後もこの方面の戦は続き、更に多数の戦死傷者を出し、多くの艦艇と膨大な輸送船、燃料を消費し、その後の日本海軍の戦力に多大の打撃を与えたのです。

 私はこの「ガ」島攻防、並びにそれに関する諸作戦にどれだけの燃料を消費したか、今数字でお話しすることができませんが、昭和191月現在の海軍燃料保有量が、余りにも少ないのに愕然としたことは忘れることができません。大東亜戦争開戦にあたり、決定された「ラボール」を最前線とする大方針を守らず、多くの将兵を死に至らしめ、膨大な航空機、船舶、軍需品等を浪費した罪は極めて重いと思います。

 

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