【あ号作戦】

 

 先ほど申したとおり、私が理解できないのは、昭和182月「ガ」島方面の撤退を決定したのにもかかわらず、我が海軍は南東方面からの敵の侵攻を恐れてか、ソロモン方面絶対死守を主張し、昭和18年後期に至るまで消耗戦を続けたことです。陸軍は「ガ」島方面を打ち切り、早急にカロリン群島、マリアナ諸島方面の防備を強化すべきであると主張します。両軍の意見調整中、敵は中部太平洋方面攻撃に戦略を転じ、昭和189月頃よりギルバート諸島方面に侵攻し、11月には同諸島のマキン、タラワを占領、更にマーシャル群島方面に侵攻し、昭和192月には、同群島の要衝クエゼリン、ルオットを制圧します。

 これより先、我が大本営は敵の太平洋中部方面の侵攻を予期し、昭和18910日、「絶対国防圏」を設定、これを死守する方針を決定しました。

「絶対国防圏」とは、千島列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、ニューギニアの西部を結ぶ防衛線であります。

 しかし、敵の侵攻は、真に早く前述のマーシャル制圧後、192月には、我が海軍重要基地であるカロリン諸島の「トラック」を急襲します。それに対し、我が海軍はいかなる理由か、一矢も報いることなく大損害(同基地航空機300機全滅、輸送船30隻沈没、艦艇6隻沈没、5隻大破)を受けます。同年3月末、古賀連合艦隊司令長官が戦死されます。しかし軍令承行令という制度のため、長官不在期間約1ヶ月余、同年53日豊田副武(そえむ)大将が長官に就任します。(この問題について、お話しする機会がありましよう。)

これより先、我が海軍は、「絶対国防圏」決定後、中部太平洋方面より進撃する敵をマリアナ方面に邀撃、これを殲滅するため、1,500機に及ぶ航空機、並びにパイロットの養成に着手しました。この時、私は訓練用燃料補給にあらゆる努力を尽くしました。この新鋭機1,500機を中核とした基地航空部隊約2,000機をもって第1航空艦隊を編成、勇将と言われた角田覚治中将が長官に就任されました。

昭和196月初旬、空母16隻(正規7、改装8)を中心とする敵大艦隊がマリアナ攻略に来襲、我が海軍は同年610日、あ号作戦を発令、これを迎え撃つわけです。その作戦はまず我が基地航空隊が敵を強襲し、敵空母の12を撃沈、その残存部隊と小沢治三郎中将のひきいる我が機動部隊が交戦、敵を撃滅するという作戦でありました。ご存じの方もあろうかと思いますが、マリアナ方面の海戦は長い間海軍大学の図上演習で研究されたものであり、いわゆるホームグランドにおいての海戦でありました。

しかしながら、敵はマリアナ攻略に際し、各基地所在の我が航空隊を強襲、これを撃滅後、海上決戦を行う計画でありました。

残念ながら、我が基地航空隊は油断のためか、敵情偵察不十分のためか、2,000機に及ぶ航空機が各基地で一方的に撃破され、海上決戦に参加した航空機は航空艦隊初期兵力の2割に満たない惨状でありました。

小沢機動部隊は基地航空隊の状況を承知しながらも、空母機等480機を活用し、決戦を強行せんとされましたが、強力な敵潜水艦隊の強襲を受け(いわゆる潜水艦による漸減作戦)、空母3隻を失い、4隻に被害あり、空母機の損失も大きく、ついに619日決戦を断念されたのであります。

あ号作戦発動時の我が機動部隊の兵力は、空母9、戦艦5、重巡3、駆逐艦29、艦載機480機であり、今次大戦中最大の艦隊でありました。このような大艦隊と基地航空隊約2,000機をもって、敵を迎え撃つ作戦でしたが、惨敗に終わり、しかもその後の資料によると米海軍の損失はわずかに航空機百数十機を失ったのみで、惨敗よりも悲惨というべきでありましょう。

なぜに惨敗したか。その原因は、先にお話ししたとおり、この大戦直前に軍令承行令という制度により、連合艦隊司令長官が1ヶ月以上任命されなかったこと。更に又、ある人は第1航空艦隊司令長官角田覚治中将の責任者としての指揮統率が不適切であったと論評します。私はあの期待した基地航空隊が、なぜに戦うことなく潰されたのか、全く理解に苦しみます。国民の血の出る努力によって生産した航空機を何等活用することなく、基地において各個爆破されたということは、やはり、角田長官の責任でしょう。

私は小沢中将を知っていますが、小沢さんは緒戦において、南遣方面艦隊司令官として英国東洋艦隊を撃滅し、南方資源地区確保に大功をたてられました。しかし、天皇陛下ご臨席において、我が統帥部が決定した「絶対国防圏死守」の命を受け、あ号作戦に参加し、その責任を達成できなかったのは不運と言うべきでしよう。

この作戦の失敗により、日本は太平洋方面において丸裸となりました。そして、マリアナ基地より、日本本土空襲は日増しに烈しくなり、敗戦は目前に迫りました。

この敗戦は我が陸海軍統帥部並びに内閣を揺るがすものとなり、昭和19718日開戦以来の東条内閣が退陣し、同年721日小磯、米内内閣が誕生、そして819日御前会議で、世界情勢判断と今後とるべき戦争指導方針が決定されました。

 

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