第二章 海軍飛行機の開発と各種戦闘機
※背景は、中国大陸を飛ぶ十二空の零戦隊
第三節 戦闘機の開発、生産と工業力
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1 開発の推移 (一) 機体 |
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機種
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馬力
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速力
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上昇力
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| ソッピース | 八〇 | 八〇ノット | 五〇〇メートル 三分 |
| スパロホーク | 二〇〇 | 一〇五ノット | 三〇〇〇メートル 一四分 |
| 海軍で最初の、わが国の名称を付けた戦闘機(一○式艦上戦闘機)を造ったのは三菱である。続いて中島が三式戦、九○戦、九五戦と海軍の戦闘機を独占した。 昭和六、七年頃までは、各国とも戦闘機は複葉型が全盛で、高翼単葉型がボツボツ造られ始めていた。この情勢の中で将来を見通して、敢然と低翼単葉型に取り組んだのが、三菱の堀越二郎技師であった。同技師の設計した七試艦戦は失敗に終わったが、その貴重な体験は後に九六戦、零戦で見事に結実した。 外国機を模倣して先進国の技術を吸収し、鋭意研究を重ねていたわが技術陣は、独自の設計を試みるようになった。特に空気力学的の研究では、各国より進んだものが少なくなかった。九六戦時代、米国は複葉型のグラマンF3Fであったし、零戦当時はF4F(中翼単葉)で、どちらもわが方が進歩していた。 中島は後に月光と呼び、夜間戦闘機として使われた双発戦闘機を造り、三菱はわが国始めての局地戦闘機雷電を開発した。太平洋戦争が始まってから、水上機専用の川西が、紫電、紫電改を前線に送った。三菱は零戦の後継機として企画された烈風を試作したが、完成には至らず終戦となった。 支那事変勃発後、飛行機を開発した以外の会社にも、量産機の制作を命じた。九六戦を九州飛行機に、零戦を中島に造らせたのもその例である。富士重工(中島の後身会社)の調査では、中島の零戦制作機数は六,五七○機で、零戦全制作機数の六三%を生産している(同調査では中島以外の零戦制作機数は三、九三○機)。 支那事変から太平洋戦争初期に使用された戦闘機は、性能においては、世界各国より優れていたが、艤装的には不完全であった。潤滑油系統、点火系統、降着装置等に故障続出し、改良すべき点が多かった。 (二) 発動機 (三) プロペラ 2 機種の統合 |
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甲 機
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乙 機
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丙 機
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任務
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敵機特に戦闘機の撃墜 | 高々度における敵機特に爆撃機の撃墜 | 夜間敵機の撃墜 |
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特性
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上昇力、速力、旋回性能調和し敵戦闘機に対し必勝を期し得るもの。 | 速力、上昇力に卓越すること 特に高々度性能優秀なこと |
夜間行動容易なこと 速力大なること |
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速力
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高さ一〇〇〇〇メートルにおいて 三八〇ノット以上 |
同左 四〇〇ノット以上 |
高さ九〇〇〇メートルにおいて 三六五ノット以上 |
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航続力
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高さ八〇〇〇メートルにおいて 全力〇.五時間 高さ四〇〇〇メートルにおいて 巡航二五〇ノット二.五時間 増槽の巡航 二.五時間 |
同左 | 同左 |
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兵装
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三〇ミリ 二 二〇ミリ 二 (又は一三ミリ 四) |
三〇〜四〇ミリ 一〜二 二〇ミリ 二 |
同左 旋回銃二〇ミリ 二聯装 一 |
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上昇限界
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一三〇〇〇メートル | 一五〇〇〇メートル | 一二〇〇〇メートル |
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防御
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軽防御 | 前面 中防御 其の他軽防御 |
同左 |
| 3 開発、生産と工業力 昭和十二、三年頃までは、用兵と技術の両面から、審議されて、実現可能の線で飛行機の開発が行われた。 しかし、太平洋戦争が始まり、しかも戦局が厳しくなるにつれ、用兵側の要求は次第に過酷になり、技術側を苦況に陥れた。用兵、技術の両側を勘案して調整すべき飛行実験部も、自らの体験上、用兵側の意向に同調することが多くなった。 このため技術側は、試作中の発動機に期待をかける以外に途がなく、希望的観測の上に立って、性能を推算する傾向となった。 合理的で技術を尊重したといわれた海軍も、戦局に対する焦慮から、要求(飛行機の性能、装備)が余りにも過酷となり、技術側はその全部を消化できなかった。 設計陣の限られた陣容に対して、試作機が多過ぎ、これと併行して戦訓及び実施部隊からの要求で改造事項が殺到した。さらに中央指導部の無定見とも思われる、開発及び生産指導の変更は、いたずらに設計陣を混乱させるばかりであった。 また、戦争中期より工員の応召、資材の輸入途絶、空襲による工場の被害等不利な条件が加わった。祖の中で技術側が全力を尽くし、夜を日に継いで努力邁進したことは、記録にとどめるべきである。 昭和七年、海軍は航空自立計画を立てた。まず飛行機を自主開発し、次いで生産を拡大する方針であった。この時の航空技術部長山本五十六少将は、特にアルミ合金の開発増産の必要を力説し、業界を指導した。これは将来を卓見した特筆すべきことである。 昭和十二年の飛行機生産は八○○機となり、十六年後期には月産二五○機(年間換算三、○○○機)の生産能力となった。 太平洋戦争に入ってから、製造施設は急増し、昭和十九年は、一三、○○○機を生産した。しかし、大量生産機構の不備と、戦争によるさまざまの障害のため、要求された数量は、はるかに及ばなかった。当年の軍令部の要求は三○、○○○機であったが、陸軍との話し合いで二六、○○○機となった。 しかもその完成機も品質管理の不良により、実用に耐えないものが続出した。 海軍は大量生産に対する指導の配慮が行き届かなかった。海軍首脳部が、大艦巨砲主義から脱却せず、航空威力の偉大なことを認識しなかったことに遠因はあるが、航空用兵者も短期決戦の思想に惑わされて、航空戦の本質に対する考慮に欠けていたと、いわざるを得ない。このため技術側も、性能を追求する余り、飛行機は職人芸とも思われる精緻さで造られ、大量生産に対する配慮は極めて少なかった。このため莫大な消耗、補給についての対応は、全く立ち遅れたのである。 その他大量生産に応じきれなかった原因として、次ぎを挙げたい。 (一) 基礎工業力不足のため、航空機工業のような精密な工作は、限られた工場でしか対処できなかった。 (二) 生産機数が多すぎ、また改造も多かった。 (三) 部品の共通性がなかった。 (四) 輸入途絶のため資材が不足した。 (五) 熟練工員が応召された。 (六) 空襲のため工場が破壊された。 |