第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘


3 硫黄島の攻防

 硫黄島の戦略的価値は、十九年七月マリアナ失陥後、わが航空作戦の前進基地及び本土防衛のための前哨基地として急に重要度を加えてきた。
 米軍は十九年十一月二十四日から、サイパンを基地とするB29が東京方面への空襲を始めている。
 しかし、三〇〇〇カイリの往復行程では、爆弾を三トンしか積めなく、戦闘機がついて行けないので、高高度から爆撃せざるを得なかった。また、硫黄島や小笠原諸島の基地からの情報で、待ち受けている日本戦闘機の妨害を受けた。
 硫黄島を手に入れれば、戦闘機等の基地として、或は必要に際し、B29の給油、損傷機の不時着場、空海の救難基地として使えるので、これを攻略することに決定した。
 米軍は早晩その本土進攻を前に硫黄島に来攻するであろうと大本営でも予期していた。しかし、わが航空戦力の実情から、その次に来攻を予想される南西諸島方面と硫黄島を両方とも防衛するには兵力が不十分であった。結局、南西諸島防衛に主力を注ぎ、硫黄島には一部の航空兵力を割くにとどめることにした。
 硫黄島防衛兵力は、二十年二月初頭、陸軍第百九師団を基幹とする小笠原兵団(長・第百九師団長栗林忠道中将以下一三五八〇余名)と、次の海軍部隊であった。
 二七航戦(司令官市丸利之助少将以下七三四〇名)
  司令部、南方諸島空、硫黄島警備隊、二〇四設営隊
 二七航戦は、十九年七月十日、十二航艦から三航艦に編入され、陸海軍中央協定により、陸上戦闘に関し栗林中将の統一指揮下にあった。
 マリアナ失陥以来二十年一月まで、硫黄島に加えられた米機動部隊の空襲は一二回延約一二〇〇機、基地航空部隊による空襲六九回延一五〇〇機、水上艦艇の砲撃八回、延六四隻にのぼり、殊に十九年十二月以降はほとんど連日B24等数十機による空襲が続き、こうした状況の下で、不屈の防御工事が進められている。

(一)米機動部隊関東方面空襲
  二月十六日、第五艦隊長官スプルーアンス大将麾下の第五八高速機動部隊(指揮官ミッチャー中将、正規空母一一隻、軽空母五隻を基幹とする五群)は早朝から関東方面を空襲した。これは硫黄島救援の出鼻を挫く狙いであった。
 米艦上機は、十六日早朝から四波延一〇〇〇機で房総、京浜地区に、翌十七日も早朝から二波約五〇〇機で関東一帯及び静岡県下に襲来した。攻撃目標は各飛行場、飛行機工場、交通機関、船舶であった。
 両日の被害は陸海軍合計で自爆、未帰還一〇〇機、地上炎上一二〇機で、各飛行機工場も若干の被害があった。
 十六日、午前二一〇空の零戦一四機は、浜松上空において三層配備のF6F及びF4U計約五〇機と交戦し、一六機撃墜(うち不確実四)の戦果を報じたが、わが方も未帰還一機を出している。
 茂原基地の二五二空戦三一一零戦延四五機は、房総半島上空で邀撃、F6F三〇機と交戦、二四機撃墜(うち不確実九)を報じたが、わが方も八機を失った。
 六〇一空戦三一〇零戦二〇機は霞ヶ浦上空でF6F群と交戦、四機を失っている。
 三〇二空は、雷電、零戦、零夜戦延四八機で邀撃、九機撃墜(うち不確実一)を報じたが、零夜戦二機を失い、雷電三機が大破した。飛行隊長荒木俊士大尉が戦死した。
 横空戦闘機隊、審査部合同の零戦、紫電改、雷電混成部隊十数機は指宿少佐、塚本祐造、山本重久両大尉の指揮で善戦健闘している。
 十一連空の谷田部空は零戦延六三機で邀撃、会敵延機数二六機(F6F)、撃墜一機(不確実)、撃破一機の戦果を報じ、未帰還三機を出している。筑波空は零戦延四八機、紫電延一一機で邀撃、撃墜九機、撃破六機の戦果を報じ、自爆一二機を出している。両航空隊とも戦闘機操縦教育課程の教官、教員が戦闘に参加し、大半が初陣であった。そのうえ、組織的な戦闘訓練を実施したこともなく、まして実戦的な編隊空戦など望めなかった。敢闘したが、苦戦は免れず、被害の方が多かった。
 十七日、館山基地で二五二空零戦一〇機が早朝発進し、上空哨戒中、敵戦闘機群と交戦し撃墜四機を報じたが、未帰還一機、落下傘降下一の被害を出している。
 香取基地の六〇一空零戦七機(指揮官戦三一〇飛行隊長香取頴男大尉)は、霞ヶ浦上空で六機撃墜の戦果を報じた。
 三〇二空は雷電延一二機、零戦延一七機で邀撃した。
 横空戦闘機隊は厚木付近上空で集結中のF6F、F4U一九機を奇襲、全機(うち不確実六)撃墜の大戦果を報じた。
 谷田部空は零戦延二七機で邀撃、F6F九機と交戦、命中弾二機(うち一機撃墜ほぼ確実)を報じ、二機を失っている。筑波空は零戦延四〇機で邀撃、撃墜三機(うち不確実一)撃破一機を報じたが、自爆三機を出している。
 米高速機動部隊は二月二十五日関東地区を空襲した。午前中、米艦上機五六〇機来襲、攻撃目標は航空基地、中島飛行機小泉及び太田工場であった。
 これに対して横空が零戦八機、紫電三機を、十一連空(谷田部空、筑波空)が零戦四二機を横須賀及び霞ヶ浦上空に配し、三〇二空が厚木北方で雷電一五機、零戦九機で邀撃し、撃墜一五機を報じたが、わが方も空戦で二機を失ったほか地上においても被害が出ている。
 一方、三航艦各隊は、六〇一空が零戦一九機、二五二空が零戦二七機を発進させて邀撃、主として香取基地上空付近で交戦して撃墜五機の戦果を得ているが、わが方の損失も多数にのぼった。
 午後には関東地方が吹雪となったので、米機動部隊は攻撃を中止して南下し、硫黄島作戦の支援に任じ、三月九日、米基地戦闘機隊の硫黄島進出を待ってこれと交代し、ウルシーに帰投している。

(二)硫黄島周辺米軍に対する航空攻撃
  二月十四日硫黄島を発進した陸攻一機は、一二〇〇頃サイパンの西方八〇カイリに約一七〇隻の大部隊が北西進中を発見した。翌十五日、木更津を発進した陸攻一機は、硫黄島の一六〇度一五〇カイリに、戦艦一、巡洋艦二を含む約二〇隻の水上部隊を発見し、敵の硫黄島来攻は一層確実視された。
 硫黄島攻略部隊の米軍は、上陸部隊として三コ海兵師団約七万五千名、支援部隊として第五八高速機動部隊、第五二機動部隊(護衛空母群)、第五四機動部隊(戦艦、巡洋艦、駆逐艦等水上部隊)から成っていた。
 二月十六日から艦砲射撃、護衛空母群の艦上機による銃爆撃を行ない、二月十九日に上陸を開始した。
 硫黄島におけるわが軍の航空支援は、艦攻、艦爆、陸攻等の極少数機の使用に限られていた。
 しかし、米軍の硫黄島攻略の企図が明確となると、三航艦の航空部隊間には、同艦隊所属の二七航戦が同島の地方防衛に任じている事情もあって、特別攻撃による航空支援強化を要望する気運が高まってきた。そこで、三航艦は、大本営海軍部の承認のもとに、二月十九日、六〇一空兵力で特別攻撃隊を編成した。村川弘大尉を指揮官とする本攻撃隊は、戦闘機、艦爆各一二機、艦攻八機から成り、「第二御盾特別攻撃隊」と命名された。
(参考)
第一御盾特別攻撃隊は、零戦一二機(指揮官二五二空付〈三航艦〉大村謙次中尉)及び彩雲二機が、十九年十一月二十七日硫黄島を発進、サイパンのアスリート飛行場を攻撃した特攻隊である。不意の強襲により、飛行場が混乱している状況が、米側電話の傍受により判明した。攻撃隊は、低空で進入し、繰り返して銃撃を加え、飛行場にあったB29四機を破壊し、六機を撃破した。全機未帰還。

 同特別攻撃隊は、二月二十一日朝、香取基地を離陸し、八丈島で燃料補給のうえ、正午から逐次出撃して、夕刻硫黄島周辺の敵艦船に突入した。
 米側資料によれば、護衛空母「ビスマルク・シー」沈没、空母「サラトガ」大破、護衛空母「ルンガ・ポイント」、防潜網輸送艦一隻、LST二隻が損傷している。
 艦爆、艦攻に随伴してこれを掩護した零戦隊には、戦果確認、報告の任務が課せられていたが、任務終了後も父島にとどまって硫黄島の米上陸軍に対する攻撃を繰り返している。
 その後、陸攻二〜六機で三月九日までに合計七回延二六機で夜間攻撃を加え、その間陸軍の重爆も数回夜間攻撃を行っている。
 米軍が早くもP51を硫黄島に進出させていたことが、三月二十一日に敵通信傍受によって判明したので、二十二日同島の航空偵察を実施し、写真判読の結果、同島に戦闘機五七機、爆撃機一八機が進出しているのを発見した。
 硫黄島の守備隊は、敵上陸以来陣地持久戦で米軍に大出血の損害を与えたが、敵の圧倒的な物量攻撃により、逐次島の北西部に圧迫された。三月十七日、栗林兵団長は悲壮な告別電を大本営に送り、夜半陸海軍部隊の生存者は最後の突撃を敢行し、硫黄島の組織的戦闘は終熄した。
 硫黄島の戦闘は極めて血なまぐさいものであった。二万一千名に近い日本軍守備隊員が戦死し、島と艦船の上で、約一万九千名の米兵が負傷し、七千名近くが戦死したり、傷がもとで死亡している。

4 B29に対する本土防空

 米陸軍はB17、B24の後継機の開発を昭和十四年十二月に決定した。これがB29で、その試作第一号機は十七年八月に完成したが、暫くの間はエンジン・トラブルが絶えなかった。
 その性能は行動半径一五〇〇カイリ、爆弾等裁量一〇トン、最高速三一〇ノット、防御機銃一三丁という強力なもので、陸軍航空総司令官ヘンリー・H・アーノルド将軍は、これによる戦略爆弾で敵を屈服させることが出来ると信じていた。
 B29は最初ドイツに対して使用する予定であったが、ドイツの抵抗が弱くなるにつれ、日本に対して使用する考えが強くなった。
 本土防空については、陸海軍中央協定に基づき、全般防空は陸軍が担当し、軍港およびその周辺は海軍の担当となっていた。日米開戦以来、わが海軍航空は常に敵機同部隊撃破を主眼として戦い、本土防空を全うする余裕はなかった。

(一) 中国大陸からのB29空襲
 B29が初めて本土に来襲したのは、米軍がサイパン島に上陸を開始した十九年六月十五日の夜であった。
 目標は北九州の八幡製鉄所であったが、重要施設には被害はなく、市外の被害も軽微であった。
 米側資料によれば、 六月十三日カルカッタ地区から移動した第五八航空団のB29 七五機は、各機五〇〇ポンド爆弾二トンを搭載し、六月十五日成都基地を出撃し、目標に到着したのは四七機に過ぎなかった。高射砲は不正確で、B29 六機に軽微な損傷を与えただけである。日本軍の戦闘機(注 陸軍機)は一六機を数えたが、命中弾はなかった。
 この空襲で、新劇途中の不時着を合わせB29 七機と五五名の人員を失った。炎上した一機を除いては、全部操作上の事故によるものである。
 三二機のB29は、目標を見分けることが出来ないのでレーダー爆弾を行い、七機は爆弾装置故障のために爆弾を捨ててしまった、と記されている。
 B29の使用はまだ実用試験の段階で、操作上、航法上のミスが多く、最初の空襲のために爆弾対は相当混乱していたようである。
 七月七日深夜から八日未明にかけて、B29 一五機(米側資料)が長崎、佐世保および北九州方面に来襲したが、当夜は雲が多く、爆弾による損害は僅少に終わった。女島、大瀬崎(五島)、田島岳(佐世保付近)および宇久島の佐世保警備隊のレーダーが機影を捕捉している。この夜の防空戦闘にも前回同様海軍航空隊は参加していない。
 七月十九日、三〇二空(厚木)、呉空および佐世保空の戦闘機隊が、陸軍防衛総司令官の作戦指導を受けることになった。また、八月一日付けで三五二空(大村)が防空専任舞台として発足している。
 成都を出撃したB29二九機のうち二四機(B29の機数、被害などは米側資料を引用する)は、八月十日深夜から未明にかけて、長崎、佐世保地区および八幡地区に来襲したが、雲におおわれていて目視爆撃をしたのは八機だけで、わが方の被害はなかった。三五二空は月光二機を発進させたが、会敵していない。
 平均六.三コの五〇〇ポンド爆弾を搭載して出撃した七五機のうち六一機が、八月二十日昼間八幡地区に来襲した。済州島及び五島のレーダーが相次いで目標を探知し、一六一〇に警戒警報が出された。  三五二空は、一六三〇空襲警報の発令と同時に、零戦三機、月光四機が発信してB29と交戦、大村空は基地上空の哨戒を行った。当時三五二空の兵力は月光五機、雷電一〇機、零戦四六機であった。
 陸軍の防空戦闘機隊(可動八七機)は全力出撃し、果敢な邀撃戦を展開した。その一機(二式複戦)は敵編隊長機に体当たりし、その誘爆により他の一機も墜落している。陸軍の未帰還は二機、大破四機である。
 米側資料によれば、八幡上空で猛烈な高射砲の射撃により、B29一機墜落、八機が損傷している。煮本気に三機撃墜され、うち二機は体当たり機によるものである。
 夜間攻撃(別動隊)のB29十三機は八幡付近上空で、一五トンの爆弾を投下した。
 B29は、前述四機を撃墜されたほかに途中で一〇機を失い、九五名が戦士若しくは行方不明となっている。
 本土西部に対するB29の来週は、この日の八幡空襲の後しばらく中断した。八月二十九日に、カーチス・E・ルメイ少将が第二〇爆撃隊司令官に就任している。
 十月二十五日、B29 五九機(成都から七八機出撃)は、朝から五次にわたって大村地区の海軍航空廠を爆撃した。これに対して、三五二空及び大村の空雷電八、零戦五七、月光七一機が佐世保、長崎地区上空の配備に就いた。このうちB29に攻撃を加えたものは三五二空延五四機、大村空延二三機にのぼり、撃墜一機、爆破一七機を報じた。わがほうの損害は不時着三機、被弾五機で、航空廠と一部大村市街地に被害が出ている。
 雷電は初の邀撃であったため、有効な攻撃は用意には出来なかった。投弾後のB29の速度は雷電と変わらなかった。
 十一月十一日朝、支那派遺軍の通報、済州島のレーダーにより目標を細くした。大村上空で待機していた三五二空の零戦三三機、雷電一一機、月光九機、大村空の零戦二三機は、雪まじりの密雲を抜けてB29を攻撃するのは容易でなく、成果はあがっていない。B29二九機は、雲高八五〇〇メートルの雲上から、レーダー爆撃をした。航空廠と大村空を狙った爆弾は二四発が基地内に落下したが、損害は軽微であった。B29は一機が地上放火で落とされ、四機が行方不明になっている(米側資料)。
 十一月二十一日、〇八三八支那派遺軍から的確なB29出撃状況がもたらされた。佐世保海軍地区では〇九一〇空襲警報発令、その直後から大瀬崎、宇久島、田島岳のレーダーの順に目標を捕捉している。
 三五二空ではあらかじめ月光を前縁に配置するため、〇八二〇〜〇九三〇の間八機を離陸させた。〇九三五男女群島上空の月光が次々とB29編隊を発見、攻撃した。
 三五二空(飛行隊長神崎國男大尉)の零戦三一機、雷電一六機は〇九〇四〜〇九二〇頃逐次発信した。この日の雲量六〜九、七〇〇〇メートルまで層雲があった。戦闘機隊は高度七五〇〇メートルで大村地区に侵入する米編隊を捕捉した。邀撃戦闘は見方戦闘機一,二機が敵の数機ないし十数機のほか編隊攻撃用として特に開発された三〇キロ三号爆弾を加えて、果敢な攻撃を行い、米編隊を攪乱した。三五二空の坂本幹彦注意は、零戦で三号爆弾を投下後上方からの攻撃で銃撃した。さらに敵を追って、編隊外側のB29に上方から体遺している。  大村空からは零戦二一機が発進、三五二空戦闘機隊と共同して邀撃戦闘を行った。
 この日、三五二空が九機、大村空が三機の撃墜を報じ、地上放火による一機撃墜が記録されている。わが方の損害も少なくはなく、四機を失い、不時着大破八機を出した。
 この日の邀撃戦闘は、B29に対して海軍航空隊が始めて有効な打撃を与えたものである。
 米側資料によれば、この日B29一〇九機離陸し、悪天候のため大村に到着したのは六一機であり、レーダー爆弾を行ったが、損害を与えることは出来なかった、日本軍戦闘機の抵抗は相当に盛んで、B29一機が撃墜され、四機が未還となった。成都離陸時の一機墜落と合わせると、同日の損害は六機喪失、搭乗員五一名を失った。
 このあと成都基地からの来襲は、十二月十九日に一七機、二十年一月六日に二八期で大村地区に対して行われたが、見るべき成果はない。

B29スーパーフォートレス

(二)マリアナ基地からのB29来襲
 米軍は、マリアナ諸島攻略に伴い、B29用基地をサイパンに一ヶ所、テニアン及びグァムに各二ヶ所建設し、各基地にそれぞれ1コ爆撃航空団(Bombardment Wing)を配置することにした。  これらの基地の設定に伴い、進出した部隊及び進出時期は次のとおりである。


島 名
飛行場名
部隊名
進出時期
サイパン イスレイ 第七三爆撃航空団 昭和十九年十月
グァム   第二一爆撃隊司令部 司令部先遣班は十九年八月サイパンに到着
テニアン 第三一三爆撃航空団 十九年十二月
グァム 第三一四爆撃航空団

二十年一月

テニアン 西 第五八爆撃航空団 同 三月
グァム 西 第三一五爆撃航空団 同 四月

 五つの爆撃航空団は第二一爆撃団(Bombardment Command)の隷下であり、同爆撃対は第二〇航空軍(Airmy Air Force)に隷属していた。  米軍は第一回東京空襲の作戦計画を決定した。この計画は、一〇〜十二飛行隊(各飛行隊はB29九〜一一機)で、昼間九〇〇〇メートルからの高度から目視爆弾を行うもので、各機の携行爆弾は五〇〇〇ポンド(焼夷弾三〇%、五〇〇ポンド破裂爆弾七〇%)と予定されていた。ハンセル准将はB29一〇〇機以上の集結しようを条件としていた。  当時、マリアナに進出していたB29部隊は第七三爆撃航空団だけで、その保有機数は十一月十五日九〇機、十一月二十二日一一八機である。  十九年十一月一日の朝、サイパンを発進したF13(写真偵察用B29)は、九〇〇〇メートルの高度で東京上空に侵入し、写真偵察を実施した。これは、十七年四月ドゥーリトル爆撃隊の本土急襲以来初めての東京進入である。
 東京初空襲(十一月二十四日) 第二一爆撃隊のB29一一〇機は、二七七.五トンの爆弾を搭載し、イスレイ基地を発進した。そのうち九四機が伊豆半島を北上し、富士山付近から東進して高度八九〇〇〜一〇〇〇〇メートルで昼過ぎ東京に侵入している。  主要な爆撃目標である中島飛行機武蔵製作所は、ほとんど雲におおわれていた、そのため、武蔵製作所を爆撃したのは二四機に過ぎず、六四機が東京市街地及び港湾に投弾し、六機は機材故障のため爆撃できなかった。  三浦半島方面上空で哨戒待機していた海軍機(雷電四七、零戦二七、月光一八、零夜戦一〇、彗星四、銀河二、彗星夜戦一−延機数)には会敵の機会はなかった。
 米資料には、日本軍戦闘防空陣は、予想ほど恐ろしいものではなく、操縦者の練度、果敢性及び先方はまちまちであったと記されている。B29の損害は、二機損失、一一機損傷となっている。
 わが陸軍防空戦闘機隊の被害は、自爆七機であった。  よく二十五日、二十六日もB29小数機(一,二機)で偵察のため関東地区に来襲した。三〇二空から延50機の戦闘機が邀撃したが、高高度高速のため捕捉出来なかった。このF13は連日のように写真偵察を行っている。時には一日に三〜四回単機で来襲することもあった。  B29の関東来襲の第二回目は十一月二十七日に行われた。マリアナからのB29空襲の第一段階作戦といえる二十年三月四日までの本土空襲概況は、下表のとおりである。

期日
時刻
来襲数
(出撃数)
爆撃高度
主要爆撃目標
同上損害
邀撃状況
(邀撃主力は陸軍機)
B29損害
味方機損害
適要
19年
11・27
一二〇〇〜
約二時間
六二
(八一)
高高度 中島武蔵製作所 なし 海軍二七機、密雲で接敵不能 不詳 なし 雲上レーダー爆撃
11・29 二三五〇〜〇四〇〇 三〇 高高度 東京都内 家屋九〇〇〇戸被害 夜間悪天候で、戦闘機は反撃不能 不詳 なし 夜間レーダー爆撃
12・3 一四〇〇〜一五三〇 七六
(八六)
八八〇〇メートル 中島武蔵製作所 工場被害小、市街地私娼四二四人 雷電二四、零戦二七、零夜戦八、月光一一、彗星三、銀河一、彗星夜戦三 損失六、損傷六 月光一未帰還、雷電一不時着水、一大破
陸軍損失六
 
12・13 一四〇〇〜一五〇〇 七四
(九〇)
高高度 三菱名古屋工場 二一〇空の零戦一四、紫電四、月光三、彗星四 損失四、損傷三一   工場建物の一八%破壊
12・18 一三〇〇〜
約二時間
六三
(八九)
一〇〇〇〇メートル 同上
航空機生産渋滞
二一〇空の零戦一五、紫電八、彗星六、月光四 損失四 陸軍損失六 密雲でレーダー爆撃、12・15三三二空戦闘隊鳴尾に進出
12・22 同上 四八
(七八)
高高度 三菱名古屋工場 二一〇空の零戦一六、紫電一一、彗星五、月光五、三三二空の雷電、零戦延二四 損失三 陸軍損失四 目標上空雲、レーダー爆撃
12・27 午後 三九
(七二)
高高度 中島武蔵製作所 三〇二空の雷電二七、零戦八月光一〇等哨戒、会敵せず 損失三 陸軍損失四  
20年
1・3
一四〇〇〜一五〇〇 五七
(九七)
高高度 名古屋市街
大阪市街
市街地は相当の被害 三三二空の零戦六、雷電二、二一〇空の零戦一二、月光六、彗星九 損失五 陸軍損失二 各機二トンのM69焼夷弾を携行、都市焼夷弾爆撃
1・9 一三三〇〜一五〇〇 五二
(七二)
高高度 中島武蔵製作所
名古屋
三〇二空の雷電二四、零夜戦七、月光九、銀河二、彗星夜戦九、二一〇空の零戦九、月光四、彗星一及び紫電隊 損失六 陸軍損失三
雷電二、零野戦一被弾
強風のためB29編隊乱す
中島工場爆撃は一八機のみ
1・14 一四三〇〜一五三〇 四〇
(七三)
高高度 三菱名古屋工場 軽微 二一〇空の零戦一三、月光三、彗星三、徳島派遣隊の紫電六、三〇二空の雷電五、零戦一、零夜戦三、月光一一、銀河二 損失五 陸軍損失一 伊勢神宮に投弾
1・19 一三三〇〜一四三〇 六二
(八〇)
  川崎明石工場 甚大
生産力の九〇%破壊
三三二空の鳴尾派遣隊の雷電七が明石工場攻撃中のB29を邀撃、二一〇空、三〇二空は会敵せず 全機帰還 陸軍損失一 B29三機が関東地区を陽動、高高度精密爆撃初成功
1・23 一四三〇〜一六三〇 七三 高高度 三菱名古屋工場 二一〇空の零戦延一八、月光二、三〇二空は明治基地上空直衛、零夜戦五、彩雲一で米機を追撃 不詳 陸軍損失六 雲量九で二八機のみ爆撃
1・27 一四〇〇〜一六〇〇 五六
(七四)
高高度 中島武蔵製作所 東京都内に相当な被害 三〇二空の雷電二七、月光一〇、彩雲二、零夜戦八、銀河二、彗星夜戦
陸海軍機とも活躍
損失九(七の記録もある) 月光二、零夜戦一未帰還
陸軍損失一二
悪天候で爆撃は完全に失敗
2・4 一五〇〇〜一五四〇 六九
(一二九)
  神戸 相当
特に造船施設能力著しく減退
二一〇空の零戦七、彗星一、基地上空哨戒、徳島派遣隊の紫電九、零戦一は会敵せず 損失一、損傷三五 陸軍損失三 約一三〇トン焼夷弾投下、三一三航空団初出撃
2・10 一五〇〇〜一五四〇 八四
(一一七)
高高度 中島太田工場 三〇二空の雷電三五、零夜戦一五、月光一三、銀河二、彗星九。茂原基地より二五二空の零戦も参加 損失一二、損傷二九 陸軍損失七 B29被害大、夜間攻撃に移行の原因の一つ
2・15 午後 八六
(一一七)
高高度 三菱名古屋工場 三〇二空の雷電三九、零夜戦一九、月光一〇、彩雲一、彗星七で関東地区哨戒 損失一 陸軍損失一 名古屋工場爆撃は三一機のみ、他は浜松へ
2・19 一四四〇〜一五四〇 約一〇〇
(一五〇)
高高度 中島武蔵製作所 東京都内相当の被害 三〇二空は銀河二で哨戒、月光一二、彗星五で邀撃 不詳 陸軍損失四 天候不良で予備目標の東京、港湾を攻撃
2・25 一四二〇〜一五四〇 一七二
(二三九)
高高度 東京 都内大
約二万戸焼失
機動部隊艦上機攻撃に引続き、焼夷弾攻撃。大雪のため邀撃不能 損失六 なし 各機五〇〇ポンド爆弾一コの他焼夷弾、レーダー爆撃四五四トン
3・4 〇八三〇〜
約1時間
一五九 高高度 中島武蔵製作所 軽微 悪天候、出撃不能 不詳 なし 雲上レーダー爆撃五〇〇トン、不成功

 十九年十一月アリアナ基地から日本本土爆撃を開始した時の、第二一爆撃隊に与えられた第一任務は、日本航空機工業の爆破であった。しかしながら、過去三ヶ月間の爆撃の結果は、主要目標とした九工場のうち、川崎航空機明石工場の被害が大きかったほかには、三菱重工業名古屋発動機と中島飛行機太田製作所が爆撃被害により生産を減少した程度であった。
  第二一爆撃隊は、三月四日までの攻撃において、出動二二回、延二、一四八機で五、一九八トンの爆弾を投下した。その約半数が飛行機工場に対する高高度精密爆撃である。
 八、五○○メートル前後の高高度で爆撃を行ったため、B29は高射砲による損害こそ少なかったが、しばしば日本軍戦闘機の果敢な激撃を受けた。米側飼料によれば、二十年一月中の損害は、離陸したB29の五・七%に及び、二月中には次の通り損害を受けている。

戦闘機によるもの           二九機
高射砲火によるもの           一機
戦闘機、高射砲火の総合威力によるもの  九機
行動上の困難によるもの        二一機
原因不明によるもの          一九機
計                  七九機

 爆撃実施上の最大の障碍は気象であった。航行間しばしば遭遇した激しい気象条件により、燃料消費が増大し、編隊は分散した。また、目標上空の気象が精密爆撃に適していたことはほとんどなかった。レーダー爆撃は滅多に成功しなかった。さらに、日本上空の一五○ノット以上のジェット気流は爆撃を著しく困難にした。

(三)B29の都市焼夷弾攻撃開始
 米軍が二万六千余名の犠牲者を出して硫黄島を手に入れたのは、B29による日本爆撃を成功させるためである。さらに四月一日に予定されている沖縄上陸作戦を支援するために、三月中旬には日本本土に対してB29の最大規模の空襲を行うことが要望された。
 そこで、米軍は対日空襲の戦術に重大な変更を行った。すなわち、従来の主として航空機生産工場に対する高高度精密爆撃に換えて、大都市に対する焼夷弾爆撃を低高度で強行することにした。低高度爆撃によって爆撃精度は向上し、また積載弾量が増加する。最初の空襲は三月九日夜、攻撃目標は東京と決定した。
  三月十日、東京夜間焼夷弾攻撃 三月九日夕刻、グァム北飛行場の第三一四爆撃航空団が離陸し、次いでサイパン、テュアンの第七三、第三一三爆撃航空団が離陸した。総数三三四機のB29の離陸完了に二時間四五分を要している。
 先頭梯団の各機ナパーム充填の焼夷弾(七○ポンド)を一八○発、その他の飛行機は五○○ポンドの焼夷弾二四発を携行した。各機は機銃弾を搭載せず、その代わりに焼夷弾をできるだけ多量携行するようにした。また低空攻撃であるため爆弾積載量を著しく増加できて、各機は平均六トンを携行している。
 先頭梯団は、十日○○○八、東京東部地区の所定目標にナパーム充填の焼夷弾を投下し、またたくまに火災を発生させた。後続梯団はこの火災を目標にして一、五○○〜二八○○の各種の高度から投弾した。
 爆撃は約二時間半に及んだ。広く江東地区をなめ尽くした火災は朝まで衰えず、焼失戸数二七万余戸を数え、死者七二、四八九名、負傷者二万四千名に達する、空前の惨事となった。
 この夜、わが邀撃戦闘機の活動するよちがほとんどなく、対空射撃も火勢が強まるに従って困難となった。出撃数に対する損失の比率は四・二%で、従来の実績と比較して妥当なものとみなされた。この経験に基づいて、米軍の燃夷弾攻撃は息もつかせずに他の主要都市に波及することになる。
 三月十一日夜  名古屋にB29二八五機(出撃三一三)焼夷弾爆撃、高度一、六○○〜二六○○メートル、投下量一、七五○トンで東京空襲よりも少し多かったが、壊滅的な被害は免れることができた。B29の損害は、高射砲火による一八機、防空戦闘機による二機計二○機の損傷である。
 三月十三日夜  大阪にB29二七四機(出撃三○一)レーダー照準焼夷弾爆撃、一七三三トンで中心部八平方マイルを全滅させた。B29の損失二機、損傷一三機。
 三月十六日夜  神戸にB29三○七機、B29三機損失。
 三月十九日夜  名古屋にB29二九○機(出撃三一三)、一、八五七トンの焼夷弾爆撃で三平方マイル焼失。
 米側資料によれば、三月十日から十九日までの十日間に行われた五回の空襲において、B29延一五五九機を出撃させ九三六五トンを投弾している。この出撃機数はマリアナからの三月四日までの全出撃数の四分の三であり、投下弾量は三倍である。なお、当時第二一爆撃隊は平均三八〇機程度のB29を保有していた。
 ルメイ少将は、日本の工業に対する大攻撃を準備中、沖縄上陸作戦の開始に伴い、作戦支援任務に服さなければならなかった。

5 沖縄航空決戦

 二十年三月に入るや、戦局はいよいよ切迫して硫黄島の敗色はもはや決定的となり、三月十日から東京をはじめ主要都市に対する激しいB29の夜間焼夷弾攻撃が始められた。
  連合艦隊は通信情報等により、米機動部隊は三月十八日ごろ九州方面に来襲するものと判断し、十七日朝、二十年二月十日新編の5航艦(第1起動基地航空部隊)に対してその旨を警告するとともに、「敵機動部隊が攻略部隊を伴う場合は機動部隊を攻撃し、しからざる場合には1部戦闘機により邀撃するにとどめて兵力の温存をはかる」よう電話による指示を与えている。
  宇垣纒5航艦長官は、慎重考慮のすえ、座して消耗を待つより積極的に攻勢に出て、米機動部隊に一矢を報いることを決意した。そして、当時北九州や四国方面の訓練基地に分散を大方終了していた飛行機隊の大部を、夜間飛行で南九州の基地に進出させている。

(一) 九州沖航空戦  
  三月十八日の戦闘  十七日夜、索敵機は敵機動部隊らしい2郡をレーダーで補足し、その位置を「都井岬の一三七度一七五海里、都井岬一三〇度一六〇海里」と報告した。これに続いて他の索敵機と種子島のレーダーが目標を補足した。
 十八日、五航艦では雷撃隊及び艦爆特攻隊計52機が黎明攻撃に出撃、艦爆攻撃隊(二七機)がこれに続いた。索敵機は〇六五〇、計一五隻の空母から成る三郡の機動部隊の発見を報じ、こうして敵の全貌が判明した。黎明攻撃隊は空母、戦艦、巡洋艦等数隻の撃沈を報じた。宇垣中将は敵空母を減殺したと判断し、全力攻撃を命じた。  しかし、あさからの艦上機の空襲による被害で各基地間の通信系が分裂されて、攻撃を断念するほかはなかった。この日の機動部隊に対する攻撃では、米側資料によれば、米空母一五隻のうち正規空母3隻に損傷を与えているだけである。一方、わが方は四三隻失った。
 米機動部隊の艦上機は、十八日早朝から主として九州の航空基地に来襲し、その数は延九四〇機に達した。これに対するわが方は、二〇三空四二機(笠原基地の戦三〇二、鹿屋基地の戦三〇三)、七二一空六六機(富高基地の戦三〇六、戦三〇七)計一〇八機の零戦で、多数の米戦闘機F6F,F4Uを相手に勇戦敢闘した。戦果は撃墜三〇機(うち不確実三)、撃破八機と報じている。わが方は自爆・未帰還三八機を出した。
 三月十九日の戦闘 索敵機は室戸岬数十カイリに四群の機動部隊を発見した。この敵に対して、天山、陸軍重爆、銀河、彗星計五〇機が黎明時から攻撃した。
 しかし、その攻撃の状況がつかめず、以後の攻撃続行に不安がもたれたので、宇垣中将は一八二〇攻撃の中止を命じた。
 この日の攻撃によって、米側は正規空母二隻が損傷している(米側資料)。 この日、艦上機は朝から呉、阪神地区の艦船と工場、九州北部の航空基地を延一〇〇〇機で攻撃した。呉では所在艦船、陸上施設に多大の損害を受けている。
 本土近海を敵機動部隊の跳染にゆだねた中に敢然と一矢を報いた戦いもあった。
 この朝、三航艦三四三空所属彩雲一機の、〇六五〇「室戸岬の南三〇カイリに敵機動部隊発見」の緊急信により、紫電七機(先発、上空哨戒)及び紫電改五四機(総指揮官戦七〇一飛行隊長鴛淵大尉)が松山基地西方海面上級でやや優位な態勢から好戦した。戦闘高度は、三,五〇〇メートル前後で、紫電改はF6Fを圧倒している。
 戦三〇一紫電改二一機(飛行隊長管野直大尉)は、松山北東上空で別のF6F編隊と激突した。
 この日の三四三空が挙げた戦果は、F6F及びF4U四八機、SB2C四機、外に地上銃化によってF4U五機の撃墜を報じている。わが方の損害は、自爆・未帰還一五機(彩雲一機も含む)、地上炎上又は大破五機であった。
 初陣の紫電改隊の戦闘は、久々の戦勝として注目され、紫電改の威力を敵味方双方に示した。
 もともと三四三空は零戦の部隊であったが、十九年十二月二十五日に、紫電改部隊として再編成された。
 日米開戦後約一年間あれ程までに強かった強かったわが海軍戦闘機隊も十八年に入ると、歴戦の士をほとんど失い、零戦も時代遅れになって、十八年後半からは彼我の態勢は逆転してしまった。わが戦闘機隊が制空権を失ってからは、航空戦が有利に展開せず、その結果海上戦は悉くといってよい程負けている。何かと精鋭な戦闘機隊を作り上げ、この部隊の戦闘を突破口として、怒涛のような敵の進撃を食い止めなければならない、と考えていた源田大佐が三四三空司令として一月十九日松山基地に着任した。
 三四三空の各飛行隊長は、それまでの戦闘経験において、闘魂、識量抜群と認められた人々であり、その下の搭乗員には未経験者も相当いたが、各編隊の核心となるような者は、これまた歴戦の古強者が入っていた。訓練も順調に進み、全部隊の士気は最高の状態に達しつつあった。
 戦況は逼迫し、三月十九日の戦闘で三四三は、その後四月初頭鹿屋基地に進出し、さらに国分基地に転戦し、大村基地で終戦を迎えることになる。
 三月二十日の戦闘  この日は、松山、鹿屋、延岡、油津等に少数機が来襲しただけであった。米機動部隊は、午後には室戸岬の南方二四〇海里付近を行動している模様であった。五航艦は、昼夜に渡って攻撃隊(昼間艦爆彗星特攻一七機、夜間雷撃一四機)を出撃させた。正規空母一隻撃沈、巡洋艦一隻撃破、正規空母一隻炎上の戦果を報じたが、米側資料では、友軍艦艇の誤射による「エンタープライズ」の損傷及び特攻機における駆遂艦の損傷が記録されているだけである。
 三月二十一日、神雷部隊の初出撃 早朝、米機動部隊(空母七隻、戦艦八隻基幹)は三群に分かれて、都井岬の一四五度三二〇海里付近を南下中であった。五航艦では銀河一五、天山六計二一機が黎明攻撃に発進、銀河一二機未帰還、戦果はほとんどなかった。 神雷部隊七二一空の野中五郎少佐指揮の一式陸攻一八機(うち一五機は桜花装着)は、11:20鹿屋基地を発進して、都井岬付近で直掩戦闘機隊と会合一路南下した。計画では五五機の零戦を攻撃隊の掩護にあてることにしていたが、故障が多く攻撃隊に随伴して進撃できたのは、七二一空掩護隊一九、二〇三空の制空隊一一計零戦三〇機に過ぎなかった。
 14:30、米機動部隊の北方約六〇海里に達した頃、F6F約五〇機の邀撃を受けた。零戦隊がこれと交戦、陸攻撃の掩護に努めたが、短時間のうちに陸攻全機が撃墜され、零戦隊も一〇機を失っている。 起死回生の与望を担って出撃した神雷部隊の第一回攻撃は目標達成直前に、米戦闘機の邀撃によってあえなく潰えてしまった。
  この日を最後に、米機動部隊の動静は不明となった。
  五航艦は、この三日間の戦闘において、飛行機喪失一六〇機(内六九は特攻)、地上被害五〇機を出した。作戦開始前の稼動兵力は約三五〇機であったから、三日間で実にその六割を喪失したことになる。
  米軍の損害は、米側資料によれば、空母5隻のほか駆遂艦1隻だけがわが航空攻撃により損傷しているが、沈没したものは1隻もなかった。しかし、空母「フランクリン」の損害は甚大で、米軍は一時は放棄を考慮したほどであった。また空母三隻が一時戦場を離脱している。

(二) 米機動部隊の南西諸島襲来
 洋上補給した米機動部隊は、三月二十三日突如として南西諸島海面に出現、艦上機延二八二機が来襲した。沖縄島南端は戦艦六隻、巡洋艦一二隻から成る水上部隊の艦砲射撃を受けている。
 二十三日以降二十五日までの間、連日米機動部隊は慶良間列島及び沖縄島南東岸に攻撃を加えた。二十五日、沖縄南東近海に空母九隻、沖縄島至近距離に戦艦一一隻、巡洋艦一〇隻、駆逐艦と掃海艇計五〇隻が認められた。この敵部隊に対して、五航艦と台湾の一航艦は、索敵七機攻撃一七機で攻撃を加えている。そのうち特攻出撃八機、未帰還五機である。戦果は、米側資料によれば、駆逐艦五隻に損傷を与えている。二十五日夕、連合艦隊豊田長官は「天一号作戦警戒」を発令、続いて三航艦(第7基地航空部隊は隷下部隊及び一〇航艦(第八基地航行部隊)に対して九州展開の準備を下令した。
 これにより先三月二十日付で、一〇航艦実用機作戦可能の兵力のうち、鈴鹿山脈以東所在兵力は三航艦長官、同山脈以西所在兵力は五航艦長官それぞれの指揮下に入れ、「天号作戦警戒」の令があれば、一〇航艦兵力を含む三航艦長官が率いて、五航艦長官の指揮下に入るよう、豊田長官は指示していた。
 (注)一〇航艦は、戦局の頽勢を挽回するため、教育部隊の一一連空、一二連空及び一三連空兵力をもって、三月一日に編成された。一〇航艦編成当時の戦闘機部隊は、筑波空、谷田部空、木村空、元山空であった。
  二六日、慶良間列島に米軍の一部が上陸した。豊田長官は「天一号作戦発動」を令した。宇垣五航艦長官は、三航艦(二五二空、六〇一空、七〇六空、七五二空、二一〇空、一三一空)の約二二〇機が二十八日から三十一日にかけて進出している。
 さらに、局地防空部隊の三五二空、三〇二空の零戦隊も作戦参加が決定された。
 寺岡長官の率いる兵力は、一〇航艦の実用機作戦可能兵力全機を合わせても三五〇機しかなかった。
 先の九州沖航空戦で、可動兵力のほとんど全力を使い尽くした5航艦の兵力は、三月二十六日保有九〇機、可動六〇機に過ぎなかった。
 一航艦は、比島から引き上げた後、台湾で再建を図っていたが、搭乗員は連日の空襲で思うように訓練もできず、まとまった攻撃は実施できる状況になかった。三月二十三日現在の可動機数は一四七機であった。
 これを総計しても、米機動部隊に対抗する可動兵力は、五五〇機程度である。
 5航艦の兵力は整頓中で、特に偵察用の彩雲が少なく、攻撃隊の主力も足りない。戦勢の推移を米軍に委せるわけにもいかず、五航艦は米機動部隊に対して所有全兵力を投入した。これが二十六日夜からの第1戦である。五航艦と一航艦の作戦機数一〇八機、未帰還二五機、そのうち特攻出撃一九機、未帰還機一四機であった。 米側資料によれば、駆逐艦二隻が特攻機によって損害を受けているだけである。
 三月三十一日までの最も重要な時期に、兵力僅少で、対機動部隊・攻略部隊攻撃が散発、断続的に終わり、大きな戦果を挙げていない。

(三)第二一爆撃隊隊B29、第七戦闘機隊P51の本土来襲
 第七戦闘機隊(7th fighter command)は、硫黄島に三月六日進出を開始し、同月二十六日完了した。
 アーノルド大将の第二〇航空軍は、B29を沖縄攻略作戦支援のための戦術的任務に使用させることに抵抗を感じていた。しかし、統合参謀本部議長は、第二一バグ撃退を所有の期間太平洋戦域総司令官ニミッツ元師の指揮下に入れることを命じた。
 そこで、B29部隊は、沖縄攻略作戦に対する特攻によるわが軍の反撃を牽制するために、九州地方の飛行場攻撃を続ける一方、本来の任務である飛行機工場の爆撃や東京の夜間空襲も続行することになった。
 三月二十七日、アリアナからのB29北九州初空襲  午前、B29一六五機が九州に来襲し、太刀洗、大分飛行場及び大村の航空廠を爆撃した。三五二空と大村空の零戦三二機、雷電八機及び月光二機が高度9,000メートルで哨戒したが、激激戦闘を実施できたのは零戦五機、雷電四機、月光一機にとどまり、ほかは高度5,000メートルを行動する米編隊を発見できなかった。
 同夜、初めて関門海峡に機雷が投下された。これは沖縄作戦開始に伴い、同海峡封鎖を狙ったものである。
 このあと三月二十九日には、米機動部隊の艦上機約一五〇機が鹿児島湾方面に来襲し、三航艦兵力の南九州進出を遅らせた。5航艦は彗星4機の昼間特攻と夜間接触機の夜間攻撃を実施したが、霧のため有効な攻撃ができず、米機動部隊を逸している。 三月三十日夜、B29 一二機が名古屋の三菱工場を攻撃し、翌三十一日朝、太刀洗い及び大村に対する第二回攻撃を行った。一五二機出撃したうち一三五機が攻撃し、太刀洗の九州旅行機の攻撃を完全に破壊した。これに対して大村基地の四六機が遊撃し、零戦一機を失ったほか地上における被害は多数にのぼった。米側資料によれば、日本軍戦闘機によりB29は一五機被弾したが、撃墜されたものはなかった。この日の戦闘を終わって大村地区における遊撃機の可動数は、零戦一七、雷電七、紫電六、月光一計三三機に減っている。
  四月一日米軍は沖縄本島に上陸を開始した。四月六日からわが軍は厳しい航空反撃を始めた。
 ニミッツ元師は、B29のほか硫黄島に展開した第七戦闘機隊P51にも沖縄攻略作戦支援を要求した。
 四月七日、B29、P51戦爆連合で空襲 第七戦闘機隊は沖縄攻略作戦支援に先立って、P51 96機でマリアナからのB29(一〇七機出撃)を援護し、東京及び名古屋を攻撃した。東京の目標は中島飛行機の武蔵製作所であった。 これに対し、三○二空の雷電延一七機、月光一五機、彗星一五機、銀河五機及び横空、六○一空(香取)、二五二空(茂原)の零戦計二五機が邀撃に上がった。わが搭乗員の多くは、この日は陸軍戦闘機「飛燕」がいつもよりは多く上がっていると早合点して、B29に対して攻撃態勢に入った。この「飛燕」と思われたのがP51であった。味方と思っていた戦闘機、しかも日本の戦闘機よりもはるかに上回る性能を持つP51に急襲されて、わが方の被害は増え九機を失った。その多くが銀河、彗星、月光である。これらの飛行機の機銃兵装は胴体上面に固定銃を斜めに装備しただけのB29夜間邀撃専用のものであったから、P51の攻撃に対抗できるはずはない。これ以後P51を随伴する場合には、これらの夜間戦闘機はB29邀撃には役に立たなくなった。
 この日の午後には、B29、P51名古屋に来襲した。陸軍の第一一飛行師団のほか、鈴鹿基地から一○○一空(輸送担任部隊)の戦闘機隊が、雷電、零戦数機で邀撃した。思いがけぬ優勢なP51に突如遭遇して、不利な戦闘を交えている。 P51は一一〇ガロンの増槽二個を持っていたので、その行動半径は九〇〇海里にも達した。 わが陸軍の邀撃戦闘機も被害が多く、一一機を失っている。それに対し、米側はB29三機、P51二機を失っただけである(米側資料)。
  三○二空戦闘機部隊分隊長寺村純郎大尉は、後日しばしば雷電でP51と交戦し、五月二十九日にはP51約一〇機と公選した体験談の中で、戦後次のように語っている。
「P51Dは、雷電よりもやや優速で、上昇力も素晴らしかった。旋回性能は高度五〜六000メートルでは雷電に比べて特に優れているとは思わない。従って、雷電でも戦える戦法がある。高度を高くとり、加速を活かして一撃離脱する戦法だ。しかし、硫黄島から東京まで六五〇カイリ往復できるP51の航続力はすばらしい。一度でもいいから同じ機数で空戦してみたかった」

P51ムスタング

 四月一二日、東京および郡山に対するB29、P51空襲 午前、B29 一七〇機、P51 一〇二機の戦爆連合で、中島武蔵製作所と郡山の工場地帯を空襲した。横空の戦闘機三機、二五二空の零戦四機、三〇二空の延六五機が邀撃し、わが方は六機を失っている。
  四月一三日、B29東京夜間空襲 三月十日から中旬にかけての夜間空襲で焼夷弾を使い尽くした第二一爆撃隊は、焼夷弾の補給を受けて、四月一三日から焼夷弾攻撃の新シリーズを開始した。同夜二二四〇から翌朝〇二〇〇の間、B29 三二七機が東京の北西部に対し、2,139トンの爆弾を投下し、被害地域は三月十日の空襲で焼け残っていた部分のほぼ全域に及んだ。横空は月光一機、彗星二機で、三〇二空は月光七機、彗星三機、銀河二機で東京湾北部において邀撃した。
 陸軍の第一〇飛行師団も奮闘した。わが方の邀撃機の損害は軽微であった。この戦闘で、米側資料にはB29三機が撃墜されたことが記録されている。
  四月十五日、B29京浜地区夜間空襲 B29三〇三機が京浜地区を爆撃、焼夷弾1、930トンを投下した。三〇二空の月光、彗星、銀河(機数不詳)が迎撃し、銀河一機を失った。陸軍第一〇飛行士団が大戦果を報じた。B29の損傷(米側資料)は一二機である。
 四月十九日、P51単独空襲 この日午前、P51約四〇機が関東地区にはじめて単独で来襲した。P51はB29 三機に誘導されて伊豆諸島沿いに北上、伊豆半島から本土に侵入、小田原付近で数群に分かれて関東地区の飛行場を襲撃した。
 これに対して、三〇二空は雷電一九機、冷戦一〇機で厚木上空で迎撃した。わが雷電や零戦を凌ぐ性能を持つP51を相手を善戦したが、わが法は雷電三機を失った。空戦による戦火は不明であったが、地上放火によりP51三機を撃沈している。
 三日後の四月二十二日にも、これとほぼ同様の空襲が志摩半島に対して加えられた。
 米側資料によれば、四月二十六日から六月二十二日の間に、P51の飛行場攻撃が繰り返されている。延八三一機が出撃し、撃墜一〇機、地上において大破させたもの六四機、損害を与えたもの一八二機の戦果を報じた。P51の損害は被撃墜一一機、未帰還七機と比較的少なかったものの、作戦全般を通じて、P51は予期されたほどの戦果を挙げていない。
 これまた米側資料によれば、第二一爆撃対は、一月一七日から五月一十一日の間に、その戦力の七五%を沖縄攻略作戦支援のための戦術的任務に使用されている。この間攻撃した九州、四国の飛行場は一七ヶ所に及び、B29の出撃は延二一〇四機に達した。これらの飛行場攻撃は、その施設を破壊するだけでなく、日本軍戦闘機を本土に釘付けにする目的をもって行われたものである。この時の日本軍戦闘機の抵抗は一般的に弱いものであったと述べられている。B29は二四機が破壊され、二三三機が損傷した。
 この一連の空襲では時限爆弾が混合使用されたので、各基地施設の修復が遅れて、航空部隊の兵力整理に支障が生じ、そのため四月二十一日に予定されていた対機動部隊攻撃も延期せざるを得なかった。このようなB29の来襲に対し、邀撃に戦闘機を割けばそれだけ攻撃支援兵力が手薄となるので、B29邀撃作戦専用の局地防空戦闘機の配備が要望されるようになった。
 連合艦隊は、四月二十二日各鎮守府所属航空隊(三〇二空、三三二空、三五二空)の雷電五航艦の作戦指揮下に入れて、九州方面における遊撃体制の強化を図ることとした。雷電隊は四月二十三日から逐次鹿屋に向けて進出し、二十六日四三機の展開を終わっている。
 雷電舞台は所在零戦戦隊と協同し、四月二十七日以降B29に対する遊撃戦を開始した。その結果、撃墜数は27日一機、28日二機、29日三機と活況を示すに至ったが、29日の戦闘で雷電が燃料補給中に被爆して七機炎上、二機大破の損害を出し、稼動機数が一五機に減少している。
 五月に入ってからも雷電部隊は来襲するB29に対し果敢な抵抗を続けたが、五月十二日になって消耗した戦力を回復する目的でその大部を原隊に復帰する処置がとられた。
 三月末以降沖縄攻略作戦の目的で継続された第二一爆撃隊による九州方面飛行場攻撃は、五月十一日の空襲を持って打ち切られ、以後本土に対する攻撃が本格的に展開されることとなる。

(四) 米軍沖縄に上陸
 「遠方各地から勢揃いしたターナー提督の統合遠征部隊の大軍は、四月一日のDデーの早い時間に予定どおり沖縄沖に到着した。そのなかには、第一及び、第六海兵師団からなる第三水陸両用軍団と、第七及び第九十六歩兵師団で編成された第二十四軍団を含んでいる。この両軍団をあわせた米第十軍は、シモン・ホリヴァ・バックナー陸軍中将の指揮下におかれていた。さらに三つの歩兵師団が呼び軍隊として控えていた」(「ニミッツの太平洋開戦史」要約) 四月一日の朝、太平洋のどの海岸にも加えられたことのないような猛烈きわまる艦砲射撃の後、米第十軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始した。天一号作戦が企図した米機動部隊の補足撃滅ができなかったばかりか、攻略部隊の洋上撃破ができなかったばかりか上陸阻止もなし得ず、182,000名の洋上陸軍にほとんど無傷のまま上陸を許す結果になった。
 三月三十一日の九州からの夜間攻撃(銀河八、陸軍重爆一二、爆撃六、天山二〇)、台湾から陸攻二機の攻撃が行われた。米側資料によれば、この日の一機がスプルーアンス大将の旗艦「インディアナポリス」に突っ込み、激突寸前に投下した爆弾が数段の甲板を貫通して爆発し、舷側に穴をあけた。間は修理のために本国に送られ、将旗は戦艦「ニューメキシコ」に移された。
 四月五日までの航空作戦の概略は次のとおりである。
 四月一日未明、六機の神雷特攻を米攻略部隊に指向し、三期の桜花が未帰還となった。午前奄美大島付近に空母八隻を発見し、彗星三機、天山六機を発信させたが敵を見ず、夜間瑞雲三機、陸攻九機、銀河四機で沖縄周辺の艦船を攻撃している。四月二日黎明米機動部隊攻撃銀河、陸軍重爆、天山、彗星、零戦などを発進させたが、また敵を見ず、午後は爆戦三〇機が沖縄南方の空母群に特攻攻撃、四機突入と報ぜられた。夜間、陸攻18機が沖縄周辺の艦船攻撃を行っている。
 四月三日は、爆戦二六機、彗星二〇機、銀河二〇機、陸軍重爆九機、陸攻五機で米機動部隊及び沖縄周辺艦船の夜間攻撃を行った。
 四月四日は、彗星夜戦八機、零夜戦四機、瑞雲三機、天山四機で沖縄周辺艦船の夜間攻撃を行った。
 四月五日、菊水一号作戦が六日実施されることに決定したので、陸攻三機で北飛行場沖に機雷敷設を行い、銀河八機、陸軍重爆一三機、天山六機で沖縄周辺艦船の夜間攻撃を行った。
 四月一日から五日までのわが海軍航空部隊(五航艦、三航艦、一〇航艦)の作戦機数延べ五二七機、未帰還60機、そのうち特攻出撃一七一機、未帰還四〇機である。
 米軍の損害は、米側資料によれば、わが特攻機により戦艦「ウエスト・ヴァージニア」、護衛空母「ウエーク・アイランド」を含む輸送艦、駆逐艦等一二、爆撃機により駆逐艦等六、沿岸防御砲により戦艦「ネバダ」、機雷により駆逐艦一計二〇隻が損傷している。その他米軍は坐礁、衝突、友軍砲撃等により二四隻が損傷している。わが方の報告戦果は戦艦、巡洋艦等撃沈だけでも八隻を計上しているが、実際に沈没したものは一隻もなかった。

(五)菊水作戦
 四月一日沖縄に上陸した米軍は、その日のうちに北及び中飛行場を占拠し、四月三日には早くも小型機の発着が認められた。  第一機動基地航空部隊の隷下航空兵力(五,三,一〇航艦)をもってする米攻略部隊及び機動部隊に対する航空総攻撃は、四月六日菊水一号作戦で開始され、六月二十二日の一〇号作戦まで続けられている。
 四月六日、海軍三九一機(九州三七三、台湾一八)、陸軍一三三機合計五二四機が参加して菊水作戦の火蓋を切った。そのうち特攻機は海軍二一五機、陸軍八二機計二九七機で、海軍特攻の未帰還は一六二機である。
 戦果については、沖縄で苦戦中の第三二軍からの視認による戦果(戦艦二を含む二一隻を轟沈、一六隻を撃沈、三二隻を撃破、総計六九隻)が当時ほぼ確実に近いものと信ぜられた。宇垣中将も「戦藻録」に「今次菊水一号作戦の大成功を祝するものなり」と記している。
 米側資料による米軍の損害は、沈没 駆逐艦三、上陸用船艇一、損傷 戦艦一、軽空母一、軽巡一、駆逐艦一五、掃海艇六、輸送船五、駆潜艇1計三四隻となっている。
 この日、航空部隊と策応し、第二艦隊の「大和」と「矢矧」以下駆逐艦八隻は、四月八日の黎明を期して嘉手納沖に突入するため、豊後水道の夕闇にまぎれて出撃した。伊藤整一中将の率いるこの大和部隊は、その夜から米潜水艦に発見され、七日午前中は零戦役一〇機ずつの上空直衛があったが、これも米機動部隊攻撃に全力を使うため、午後は上空直衛もなく裸となり一路南下した。
 七月一二四〇頃、坊の岬灯台の二五〇度一二〇カイリ付近において、ミッチャー中将の第五八高速機動部隊の3群の艦上機三三三機の空襲が始まり、一四二三「大和」は沈没した。「矢矧」と駆逐艦四隻も沈没、一六三九連合艦隊は突入中止、佐世保へ帰投を命じた。以後日本艦隊の出撃は後を絶った。米軍の損害は、飛行機一〇機と一三名の人員を失っただけである。
 四月七日あら一一日までの海軍作戦機数四五機、であた。米側資料による米軍の損害は、沈没砲艦一、損傷三三計三四隻となっている。損傷の中には空母四隻、戦艦二隻が含まれている。
 四月十二日、菊水二号作戦 菊水一号作戦によって米攻略部隊に大損傷を与え、機動部隊も攻略部隊も潰滅的損害を蒙る。追撃、戦果拡充の機は今であると考えた、大本営及び連合艦隊は、引き続いて特攻作戦を考えていた第一起動基地航空部隊に対し、九日作戦強化を指令した。しかし、連日天候不良で、十一日の喜界島南方の機動部隊攻撃に引き続いて行われたのが菊水二号作戦である。
 十二日は、〇三三〇発進の彗星夜戦九機と零夜戦八機による飛行場銃爆撃を皮切りに、艦爆、艦功、爆戦、桜花(八機のうち六機発進、全機未帰還)の特攻及び陸功、銀河、陸軍重爆、端雲の書く攻撃隊の薄暮夜間攻撃が行われた。
 制空対は、第一波陸軍戦闘機一五機が〇七〇〇発進して沖縄の米戦闘機を誘い出し、続いて第2波零戦33機(戦三一二、戦三〇二、横空、大村空)、第三波零戦三七機(戦三〇二、三五二空)、第四波零戦二六機(元山空、出水空)が1100、1130、1200に発進し、列島線と泊地付近で敵戦闘機と交戦し、撃墜20機を報じたが、一四機の未帰還数を出した。一方、三四三空紫電改三二機は、庵美大島、喜界島付近まで進出して、一三〇〇ころ喜界島上空で米戦闘機役八〇機と交戦し、撃墜F6F二〇機(うち不確実二)、F4U三機(うち不確実1)を報じた。紫電改は未帰還一一機のほか不時着三機を出している。
 この日の参加兵力は海軍機合計三四五機で未帰還一一四機(うち特攻七二)台湾方面出撃機は海軍二一機(うち特攻一二)陸軍一五機(うち特攻八)である。
 菊水2号作戦は、一号作戦に比べると、戦果は少なかったが、敵鑑定の撃沈破は空母を含み二〇隻以上で、まず相当な打撃を与えたものと、五航艦は判断した。米資料による米艦船の損害は、沈没駆逐艦一(桜花)、損傷戦艦二、駆逐艦一〇(うち二隻は桜花による)、掃海艇一、その他戦艦一(味方砲火)、油槽船一(衝突)、輸送船二(衝突、座礁各一)となっている。 (この日、ルーズベルト大統領が死亡し、副大統領トルーマンが大統領に就任した。)
 四月十六日の菊水三号作戦の作戦機数は、海軍四一五機(うち特攻一七六)で未帰還一二七(うち特攻一〇六)、陸軍92機(うち特攻五一)総計五〇七機(うち特攻二二七)であった。
 菊水三号作戦は、使用兵力の割には一号、二号に比べて、米軍に大きな打撃を与えることはできなかった。米側資料による米艦船の損害は、沈没駆逐艦一、(味方砲火)である。
 この日午前、敵艦上機約一〇〇機が南九州に来襲した。
 四月十七日、連合艦隊は一〇航艦と三航艦の一部に対する第一起動基地航空部隊の作戦指揮を解いた。決号作戦(本土決戦呼称)に備えることになったのである。
 今一押し後続の兵力さえ補充してくれたならばとの思いで、奮闘を続けてきた五航艦司令部にとって、この措置は思いがけないものであった。戦は七分三分の兼ね合いと言われるように、見方の苦しいときは敵も同じように苦しいときである。このとき日本側は今一押しの兵力が続かなかった。
 米軍も苦しんでいた。このときの状況を、戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」は、ハンソン・ボールドウィンの従軍記事「史上最大の海空戦」を紹介しているので、引用する。
 「毎日が絶え間のない警報の連続であった。ぶっつづけに、四〇日間も連日連夜慶良間の空襲があった。錨地は損傷艦でいっぱいになった。損傷艦の群が、よろめきつつ太平洋を渡っていった・しかし、それにもかかわらず莫大な補給は沖縄へと絶え間なく続いた。四月十七日スプルンアンスはニミッツに次の意見を具申した。『敵の特攻攻撃は熟練活効果的であって、艦艇の損害が極めて大きいため、あらゆる手段を尽くして、今後の特攻攻撃の阻止を図らなければならない。よって第一二空軍を含む全航空兵力を動員して、九州および台湾における敵の飛行場に、できる限りの攻撃を実施するように進言する』」
 米軍は特攻対策として、第57拘束機動部隊と沖縄の周辺に駆逐艦などを持ってレーダーラインを作り、多くの消所を設けた。これによって特攻隊の来襲を早期に探知して、量を誇る戦闘機で撃墜し、一機の特攻機も機動部隊と沖縄泊地に侵入させまいとした。陸軍も要所に迅速に対空砲台を備え付け占領した飛行場から海兵隊戦闘機群が邀撃に上がった。このためレーダーライン付近で激戦が繰り返され、多くの特攻機がここに破れたのである。米軍もこの硝戒鑑の被害が最も多かった。
 四月下旬、菊水4号作戦 二十七日夜間攻撃(約二〇機)、二十八日薄暮特攻攻撃(約四〇機)を行い、数隻の撃沈破を報じた。さらに二十九日、沖縄東方の空母5機を含む機動部隊を強襲し、爆戦三三機中一九機が突入を報じている。  二十八、二十九両日、第六航空軍の延九七機(うち特攻七二)が沖縄に出撃、また台湾からは第五基地航空部隊の延約五〇機が策応した。
 五月四日、菊水五号作戦 第一起動基地航空部隊は、沖縄現地軍の攻勢に策応して五月四日を期し、菊水五号作戦を実施することにした。
 二、三両日の夜間攻撃隊の沖縄の基地及び艦船攻撃に次いで、四日は梨明から夜間に至るまで泊地及び周辺艦船を攻撃した。昼間は爆戦、桜花、艦爆、艦攻、水偵各隊(計七〇期)が制空隊(零戦、紫電改約八〇機)の庵護下に特攻攻撃をかけた。突入を報じた特攻機三〇機以上、桜花も三機が突入に成功している。台湾の一航艦からは艦爆、艦攻、爆戦約二〇機が特攻攻撃を行った。米側資料による米艦艇の損傷は七隻である。  菊水五号作戦における海軍の作戦機数三〇〇機、未帰還六五機、うち特攻出撃一三六機、未帰還六一機である。この他陸軍の作戦機数一三六機、そのうち特攻出撃八〇機、未帰還六〇機である。
 兵力不足のため、水偵(零水偵、九四水偵)を特攻として繰り出している。
 五月一一日、菊水六号作戦 海軍総隊(四月二十五日、海軍総司令長官は、連合艦隊司令長官を兼務し、作戦に関し、支那方面艦隊、鎮守府、警備府、南港軽侮不お呼び海上護衛隊を指揮することになった)は、菊水六号作戦を実施することにした。
 十日、北飛行場と周辺鑑船の夜間攻撃(陸爆、陸攻、夜戦、桜花、水爆、陸軍重爆三六機)を行い、一一日約一二五機(制空戦闘機−二〇三空零選五機、彗星、陸攻、九七鑑攻、天山、爆戦、桜花、銀河、水偵)は早朝発進して前夜間と同じ目標を攻撃し、爆戦二六機は米機動部隊の策的攻撃に向かった。台湾からも九日二五機、十日五機出撃した。第六航空軍は、一一日までの海軍作戦機数三四五機、未帰還六七機、そのうち特攻出撃八六機、未帰還六〇機であった。これに呼応した第六航行軍の基地及び泊地艦船攻撃は、作戦機数約八0機、うち特攻三五機を発進させた。  菊水六号作戦における米軍の状況について「日本海軍航行史」が述べているので、要約引用する。 「五月十一日、わが陸海軍の特攻機が沖縄に殺到した。レーダーラインの間所及びに空母から発信した敵戦闘機のため多数の特攻機が撃墜された。敵の防衛線を突破した特攻機は敵空母に肉迫し、正規空母『バンカーヒル』に零戦一機と彗星一機が体当たりした。『バンカーヒル』では四二〇名が戦死し、二六四名が傷ついた。戦死者のうちにはミッチャー中将の幕僚一三名が含まれていた。また艦の損害も甚大で、将棋を『エンタープライズ』に移した。『バンカーヒル』は修理のため本土に送られた。『エンタープライズ』は四月十三日の特攻攻撃の損傷でウルシーに後退し、五月六日再び戦場に現れたものである」  ミッチャー中将は怒って、九州の特攻機地を全滅させるため、第五八高速機動部隊を率いて、十三日延六二〇機で全九州を襲っている。
 五月八日以来鹿屋で陣頭指揮していた海軍総隊豊田長官は、十四日、九州に来襲中の機動部隊攻撃を命じた。
 十四日、制空隊零戦四〇機(筑波空)をつけて、爆戦特攻二八機(七二一空)、陸軍特攻三機が黎明発進、米機動部隊を索敵攻撃した。空母突入を報じたのが六機あった。再び「日本海軍航空史」から要約引用する。 「特攻隊は敵空母を目指して突進したが、敵戦闘機と防御砲火のため大部分は撃沈されてしまった。しかし、唯一機が旗艦『エンタープライズ』の前部昇降機に体当たりし、巨大な昇降機を中天に吹きあげ、甚大な損傷を与えた。そのため、ミッチャー中将は再び旗艦変更を余儀なくされた。空母『エンタープライズ』は、これで三回も特攻攻撃を受けた。  敵空母に対する特攻攻撃は、この五月十四日が最後であった」

 

   五月二十七日菊水八号作戦以後特攻攻撃は兵力不足のため衰えていった。遂に機上作業練習機白菊までがかり出されるようになった。
 わが航空攻撃が天候に阻害されている間も、南九州各基地は、六月二日F6F、P51等一五〇機、六月三日大型機五〇機、小型機八〇機が来襲した。三日、わが索敵機は沖縄の北東〜東方、一一〇〜七〇カイリに二群の米空母部隊を発見した。米側資料によれば、これは米第一高速機動群と第四高速機動群で、後者が南九州を空襲した。これは、五月二十七日スプルーアンス大将から艦隊の指揮を継承したハルゼー大将が真先に手掛けたものである。
 一方、陸上のわが軍は刀折れ矢尽きて、小禄飛行場を死守していた太田実少将(戦死、中将)の率いる沖縄特別根拠地隊は、六月十日、戦火に巻込んだ沖縄県民の協力を報告し、その将来を憂えた切々たる訣別電を発して、全軍玉砕した。また六月二十二日、牛島満第三十二軍司令官と長勇参謀長は磨文仁の高地において自刃し、ここに九旬にわたる激戦は遂に終った。
 六月十五日以来降雨のため順延されていた菊水十号作戦が二十一日再興され、約六〇機で沖縄周辺艦船に対する夜間攻撃を実施し、二十二日昼夜にわたり桜花、爆戦特攻計一四機を含む約一三〇機が艦船攻撃に出撃した。第六航空軍も二十一、二十二両日計十五機の特攻が突入している。
 二十二日は、延四五〇機のB29が中部、近畿、中国の各地に来襲し、うち三五〇機は呉方面を爆撃した。
 大本営海軍部は、沖縄陥落が明確となった六月二十一日、この菊水十号作戦をもって沖縄方面昼間強襲を打切り、その後は主として夜間攻撃を続行することにした。事実上沖縄航空決戦を断念し、ここに本格的に本土決戦準備に移行する決意を固めた。
 結局、海軍延約八、五八六機、陸軍延二千数百機合計一万機を超える飛行機を投入した沖縄航空作戦も、遂に目的を達することはできなかった。
 沖縄作戦で特攻を実施した機数は海軍九八三機、陸軍九三二機で、体当り機数一三三、至近となった機数一二三、奏効率一三.四%、被害艦数二二九隻となっている(「日本海軍航空史」)。
 米側の艦艇等の損害は、「米国海軍作戦年誌」によれば沈没二四隻、損傷三四九隻(損傷延三八〇隻)で、このうち日本軍によるものは沈没二四隻、損傷二一八隻(損傷延二四〇隻)である。このうち、特攻機によるものは沈没一五隻、損傷一七四隻(損傷延一九二隻)で、わが戦果の八〇%は特攻機によるものである。ただ「米国海軍作戦年誌」には、上陸用舟艇以下及び海軍在籍艦船以外の損害は含まれていないので、実数は相当上回るものと思われる。(「ニミッツの太平洋海戦史」によれば、日本軍飛行機による沈没二六隻、損傷三六八隻を超えると述べられている。)米艦艇乗員の戦死、行方不明四、九〇七名、負傷者四、八二四名となり、空母「フランクリン」は一隻で八〇〇名以上の戦死者を出している。

6 連合軍の本格的本土航空攻撃

(一)B29による大規模空襲
 米軍の沖縄攻略作戦の進展に伴い、このための支援任務から開放されたB29部隊第二一爆撃隊は、五月二十四日以降本来の任務の日本本土戦略爆撃任務に復帰した。
 四月中にB29部隊はインドから第五八爆撃航空団、米本土から第三一五爆撃航空団が増強されて、B29五〇〇機以上での攻撃が可能となった。
 これらのB29を多数使用し、大都市を爆撃した状況は次表のとおりである。

日時
来襲数(出撃数)及び爆撃高度
使用弾量
爆撃目標
同情損害
邀撃状況(主力は陸軍機)
B29の損害
わが飛行部隊の損害
摘要
20年
5.14
昼間
(四七二)3,700〜6700メートル 焼夷弾2,515トン 名古屋北部 3.15平方マイル破壊 海軍機は出撃せず 損失10
損傷46
不詳  
5.17
未明
四五七(五二二)低高度 焼夷弾3,609トン 名古屋南部 3.82平方マイル   損失三(機材故障) 不詳 これで,名古屋は目標リストより除外
5.24
未明
五二〇(五六〇)2,400〜5,000メートル 焼夷弾3,645トン 東京南東部 5.3平方マイル6.4万戸 横空の月光、彗星一、三〇二空の月光八、彗星七、銀河二、零戦二 損失一七
損傷六九
不詳  
5.25
五〇二 焼夷弾3,262トン 東京 16.8平方マイル15.7万戸、皇居内に延燃        
5.29
午前

B29,P51連合
B29五一七
P51 一〇一

焼夷弾25,70トン 横浜 6.9平方マイル(横浜の3/1) 三〇二空の雷電三、零戦八,二五二空の零戦一〇、邀撃不徹底 B29損失五、損傷一七五、P51損失三 不詳 本日で京阪地区の主要都市攻撃完了
6.1
午前

B29、P51連合
B29四五八(五二一)
P51二七(一四八)
3,500〜8,700メートル

焼夷弾2,700トン 大阪 3.15平方マイル 主力(陸軍機)の反撃は強烈と米側資料にあり P51損失27
(雲中で空中衝突)
不詳 P51は一四八機出撃中二七機のみが合同(途中前線に突入のため)
6.5
午前
四七三(五三一)4,200〜5,500メートル 焼夷弾3,077トン 神戸 4.35平方マイル 主力(陸軍機)の反撃は強烈と米側資料にあり

損失一一
損傷一七六

不詳 本日で神戸は目標リストより除外
6.7
午前
(四五七)5,500〜7,000メートル 焼夷弾2,540トン一部1,000ポンド高性能爆弾 大阪及び大阪造兵巌 2.21平方マイル   損失一一
(高射砲)
不詳 P51一三八が出撃、曇りのため掩護できず
6.9
午前
約一三〇 焼夷弾 尼崎、明石一部名古屋   三三二空の零戦,雷電,月光,彗星計二〇 不詳 不詳  
6.10 B29,P51連合B29約500 通常爆弾 千葉,三浦半島,京阪地区の工事施設,工場 被害は目立たず 6月5日付の横鎮第三航空部隊(七一航戦主体の戦闘機部隊)の零戦一〇七、紫電二四、雷電一一、彗星夜戦六機で邀撃 不詳

損失
紫電三
零戦三
彗星一
大破七

対象地域広範囲
6.15 四四四(五一六) 焼夷弾3,157トン 大阪、尼崎 1.9平方マイル0.59平方マイル 三三二空の零戦一八、雷電九発進、会敵せず 不詳 不詳  

 この六月十五日の空襲をもって、米軍は日本本土の市街地攻撃の第一段階を終了した。空襲による主要大都市の破壊は、次のとおり市街地面積の四一%に及び、米軍が計画した目標の九〇%以上が破壊されている。
 都市名  市街地面積  計画面積   破壊面積
 東京   一一〇.八   五五     五六.三
 名古屋   三九.七   一六     一二.四
 神戸    一五.七    七      八.八
 大阪    五九.八   二〇     一五.六
 横浜    二〇.二    八      八.九
 川崎    一一.〇    六.七    三.六
 計    二五七.二  一一二.七  一〇五.六
                  (単位平方マイル)」
(二)艦上機、小型陸上機の来襲
    1、四、五月来襲状況
 沖縄作戦が開始されると、米機動部隊艦上機の来襲は九州方面に限定される傾向となった。
 二十年四月十五日午後及び十六日の午後、それぞれ約一〇〇機の艦上機が南九州に来襲して、鹿児島及び宮崎南部地区の飛行場を爆撃している。
 五月に入ってB29の大都市空襲が再開されても、機動部隊艦上機の来襲はすべて九州方面に限られた。
 五月八日 昼前、硫黄島発信のP51約五〇機が九十九里浜から侵入して、千葉付近の工業地帯を銃撃した。三〇二空では零戦八機を東京西方に上げたが会敵していない。
 五月十三日 索敵攻撃に出た彗星夜戦が、早朝佐多岬の一四〇度一三〇カイリに空母四隻を含む米機動部隊を発見、天航空部隊(五航艦及び三航艦をもって、五月十二日付で編成された「連合航空隊」)はさらに彩雲五機を索敵触接にあてた。
 米艦上機は〇六二二から〇八〇〇までに第一波の約三〇〇機が、次いで一一二〇から一三〇〇までに第二波の約二二〇機が、そのあと夕刻までに第三波約一〇〇機が九州南部を襲った。米機はおおむね鹿児島及び宮崎南部方面から侵入して鹿屋、鹿児島、富高、熊本、出水、大分、佐伯の各飛行場に対して銃爆撃を加えた。艦上機の来襲は四月十五日、十六日の空襲以来およそ一カ月ぶりのことである。
 わが方は午後索敵に出た紫電が米機動部隊二群を、同夜索敵機が四群を発見し(都井岬の一〇七〜一五六度間)、十四日〇三三〇陸軍重爆一二機と銀河五機が出撃したが、戦果は確認されていない。
 七二一空爆戦特攻二八機に零戦四〇機の制空隊をつけて〇六〇〇出撃させたことは既に述べた。
 五月十四日 午前、敵艦上機延約三〇〇機が九州各地に来襲した。この機動部隊に対して、六三機から成る攻撃隊に制空隊をつけて薄暮特攻を実施しようとしたが、離陸直後に上空で待受けていた米戦闘機の降下急襲に遭い攻撃を中止している。
 五月十七日 この日名古屋に対してB29による焼夷弾攻撃を加えられ、一方、関東地区にはP51約四〇機がB29に誘導されて来襲している。昼過ぎ相模湾方面から侵入した米機は、主として京浜南西方の飛行場施設を銃撃した。三〇二空(厚木)から雷電九機、零戦一〇機が上空哨戒に当たったが、厚木基地はP51十数機の攻撃を受けて五機炎上の損害を出した。二五二空(茂原)からも零戦八機が邀撃に発進したが会敵していない。
 五月二十四日 東京に対するB29五二〇機の大規模空襲が行われた。この日天航空部隊は沖縄東方約三〇カイリの米機動部隊に対して、「菊水七号作戦」を発動してこれを撃砕しようと試みたが、機先を制するように来襲した艦上機の攻撃にかき乱されて触接を失い、機動部隊攻撃の機会を失っている。同日戦爆連合の約一二〇機が志布志湾と薩摩半島方面から侵入して、午後二時間にわたって九州南部の飛行場を攻撃した。
 五月二十五日 夜間のB29五〇二機の東京大空襲に先行して、正午頃P51約六〇機が来襲した。B29に誘導されて伊豆諸島沿いに北上した編隊は、海上で二分して一隊が房総から霞ヶ浦方面を攻撃して勝浦方面に去り、他は伊豆半島から侵入して小田原、八王子、東京北部を襲ったのち相模湾に去った。これに対して、三〇二空が零戦一一機、雷電五機を発進させている。
 五月二十八日 B29に誘導されたP51約三〇機が、昼過ぎ九十九里浜から侵入し千葉、茨城方面の飛行場を銃撃した。二五二空の零戦一〇機は茂原基地から発進して、霞ヶ浦空を攻撃中のP51二十数機を発見攻撃した。この日、南九州方面にも午前P47、P51約七〇機が来襲している。
    2、六月急襲に来襲激化
 六月二日 午前、F6F、F4Uなど艦上機約一五〇機が南九州(笠原、出水、宮崎、串良、知覧)に来襲した。この日の午後PBM飛行艇が戦闘機に掩護されて鹿児島湾に着水、不時着パイロットを救助のうえ退去している。米軍の不時着パイロットの救助は徹底していて、終戦まで続けられた。
 三四三空戦四〇七飛行隊長林啓次郎大尉は紫電改二一機(戦四〇七、戦七〇一各八機、別動直掩隊戦三〇一の五機)を率い、大村基地を発進、〇九五五鹿屋上空高度六、〇〇〇メートルで、攻撃終了後集合中の艦上機F4U一六機を発見、直ちに突撃に移った。高度差四、〇〇〇メートル、F4U群の後方から接敵し、完全な奇襲で、たちまち一三機を撃墜したと報じている。
 戦三〇一の五機(指揮官飛行分隊長松村正二大尉)は、本隊の上空掩護中、高度三、五〇〇メートルを南進中の別のF4U八機を発見し、これを急襲して五機の撃墜を報じた。
 わが方は二機未帰還となった。
 ハルゼー提督麾下の飛行機隊に衝撃と警告を与えた紫電改隊のこの日の指揮官林啓次郎大尉は、去る四月二十一日鹿児島県出水上空でB29一機を撃墜後自らも被弾墜落、壮烈な戦死をとげた戦四〇七飛行隊長林喜重大尉の後任隊長であった。この林啓次郎大尉も、六月二十二日喜界島上空でF4U群と空戦し、帰還しなかった。

月日
時刻
来襲機種
機数
来襲地
摘   要
6・3
〇七五八〜
〇九一五
F4U
F6F
約八〇
南九州  
6・6
一四〇〇 大型機
小型機
十数機
約五〇
南九州  
6・8
一二三〇 艦上機
小型機
延七八〇
三群
南九州 鹿屋の戦闘機兵力の大部、喜界島方面米戦闘機制圧に出撃、会敵せず。基地帰投直後襲撃を受け被害大。
6・10
〇七五〇
午後
B24、P47、F6F、P47
約七〇
一六
南九州
南九州
 
6・11
〇八五〇 B24
P47
一一
三〇
鹿児島
基地
零戦四〇機邀撃、戦果なく、未帰還四機。
6・12
一一五〇 P47
F4U
約三〇
鹿屋  

(三)B29機雷敷設による海上交通路の封鎖
 二十年三月二十七日深夜、第二一爆撃隊は日本の内海に対する機雷敷設作戦を開始した。下関海峡に初めて機雷が投下された。この日以来戦争の終末までB29の機雷敷設が続いた。攻撃の重点は関門地区から次第に日本海側に移行し、さらに北部朝鮮の諸港にまで拡大された。
 この一連の機雷敷設に従事したB29は、延一、五二八機に及び、投下機雷は一二、〇五三個を数えた。この結果、既に行詰っていた海上交通路の確保はますます至難となり、わが国力は戦争の継続を不可能とする程に低下した。
(四)中都市に対する空襲

  (1) 多数都市に対する同時空襲(六月中旬)
 B29による大都市焼夷弾攻撃は、二十年六月十五日の大阪空襲を最後として一段落した。これまでの成果から見て、米軍は引続き中都市に対する空襲を開始した。
 六月十七日夜、B29四五六機(出撃数四七七)は、大牟田、浜松、四日市、鹿児島を同時に焼夷弾攻撃した。日本軍の抵抗はほとんどなく、投下弾量は三、〇五八トンという大量であった。初めて試みた多数都市の同時空襲に成功した米軍は、このあと戦争の終末に至るまで、同様方式の空襲を継続することとなる。
 六月十七日以降、中小都市の焼夷弾攻撃は一六回、五八都市に対して行われ、延八、〇一四機で五四、一八四トンの焼夷弾を投下している。
 これに対する日本軍の抵抗はほとんどなく、B29は七月二十六日大牟田上空で一機撃墜されたほか、操作上の誤り又は不明の原因により一八機を失い、六六機に損傷を受けた程度である。

  (2) 六月下旬〜七月上旬の来襲状況
 六月下旬から七月上旬に至る間の小型機の来襲状況を地区別に分類すると次ページのとおりである。

月 日
九州地区
関東地区
その他

機 数

方 面

機 数

方 面

機 数

方 面
六・二〇
三〇
大村
 
 
 
 
二一
四〇
南部
 
 
 
 
二三
三〇
西部
七五
茨城
 
 
七・ 一
一三〇
鹿児島
 
 
八〇
浜松
一〇〇
各地
 
 
 
 
 
 
一二〇
茨城・千葉
 
 
二〇〇
西部
北部
一〇〇
茨城・栃木・千葉
 
 
一六〇
鹿児島
九〇
茨城・千葉・埼玉
 
 
二〇
西部
 
 
 
 
一五
西部
一五〇
茨城・千葉・京浜
 
 
 
 
 
 
四〇
浜松
三〇
各地
 
 
五〇
京阪神

(五)米機動部隊の本土攻撃
 十次にわたる菊水作戦を中心とした沖縄攻撃において貴重な航空兵力の多くを消耗した海軍は、このあと大規模な作戦を避けて、夜間少数機による沖縄方面の攻撃に終始しており、極度の燃料欠乏のために小型機に対する邀撃も中止して、残存戦力の温存を図らざるを得なくなった。
 七月に入ると、米軍のわが本土空襲は一段と激しさを増した。とりわけ沖縄の陸上基地からの戦爆連合による九州方面攻撃及び硫黄島を基地とするP51の関東、東海、近畿方面への空襲が多くなっている。
 七月十日、関東地区来襲 六月初めに九州を襲ったあと暫く消息を絶っていた米機動部隊は、レイテ湾で補給整備ののち、十日朝には房総沖、東京を隔たる一七〇カイリの海域に到達していた。同日朝、米機動部隊艦上機は関東一円の航空基地及び一部の市街地を襲い、夕方までに八波延約一、二〇〇機に及んでいる。
 各航空基地は航空機による邀撃を行わず、もっぱら分散、遮蔽によって兵力温存に努めた。
 同じ日、戦爆連合約一四〇機が九州西部を襲った。また、阪神方面にもP51約一五〇機がB29数機に誘導されて来襲している。そのほか、同日未明のB29約七〇機による仙台焼夷弾攻撃をはじめとして、B29の要地偵察、飛行艇の洋上哨戒も従来どおり続行されている。わが方が兵力の温存に徹して邀撃を控えるに伴って、米軍の本土に対する攻撃はますます強化されるようであった。
 七月十四日、十五日 北海道と東北の各地が艦上機の攻撃に見舞われただけでなく、白昼戦艦等の艦砲射撃を受けるようになった。
 十四日の空襲の結果、三沢基地における陸攻の被害が大きく、同地で七月十七日に実施の予定で準備を進めていた「剣」作戦部隊によるサイパン攻撃は、約一ヶ月延期されることとなった。
 七月十六日 正午頃P51約一〇〇機が東海地区に来襲し、また同夜B29約一九〇機が沼津、平塚方面を焼夷弾攻撃している。
 七月十七日 早朝から艦上機が関東、東北方面に来襲、その機数は一〇〇〇頃までに四〇〇機に達した。米機動部隊の位置は、同日〇六〇〇頃金華山の一三〇度一〇〇カイリと推定された。この夜遅く茨城北部地区に艦砲射撃が加えられている。
 七月十八日 午前小型機約八〇機が南九州に来襲し、午後艦上機約八五〇機が関東地区の航空基地及び軍事施設を攻撃した。
 七月十九日 朝、P51が東海地区と近畿地区に、それぞれ約六〇機で来襲した。この夜日立、福井及び尼崎の各市がB29の空襲を受けている。
 このような状況を見ては、海軍は兵力温存一筋を決め込んでおられなくなった。七月二十日、海軍総隊は従来の方針を緩和し、米空母又は艦砲射撃を行う米艦に対しては、好機を捉えて奇襲攻撃するよう命じている。
 七月二十四日 朝から夕方にかけてP51延約三〇〇機が浜松方面に来襲し、さらに朝から昼過ぎまでB29延七五〇機が名古屋、阪神、中国方面に来襲した。
 この日は、このほかに米機動部隊の大空襲があった。四国南東方海域から発進の米艦上機五波延約一、一五〇機が、名古屋以西の西日本航空基地及び艦船に対して攻撃を加え、呉軍港在泊艦艇の大部分が被害を受けている。
 この艦上機に対して、午前大村基地から三四三空の紫電改隊が邀撃にあがった。
 この日の全可動機は、三コ飛行隊全部で僅か二一機に過ぎなかったが、源田司令は発進させた。地上指揮所から無線電話で巧みに指揮誘導し、豊後水道佐田岬付近上空で南下する米大編隊の後尾編隊と会敵させた。戦七〇一(飛行隊長鴛淵大尉)、戦四〇七(飛行隊長光本卓雄大尉)両飛行隊が突撃し、たちまち激戦が展開された。当初上空直掩の任に就いていた戦三〇一飛行隊(飛行隊長菅野大尉)は、敵の後続編隊に攻撃を指向した。三コ飛行隊は約三倍の敵機と取組み、僅か十分足らずの戦闘でF6F、F4U、SB2C併せて一六機の撃墜を報じて帰投した。わが方の未帰還機は六機であり、その中には総指揮官鴛淵大尉と「空の宮本武蔵」といわれていた空戦の達人武藤金義少尉が含まれている。
 この日の上空直掩隊の指揮官菅野大尉は、八日後の八月一日、B24、P47、P51の戦爆連合大編隊邀撃のため、紫電改二〇機を率いて出撃した。屋久島上空で交戦中、二〇ミリ機銃のトウ内爆発を起し、速力が急減した。安否を気遣って近寄った列機(堀光雄飛曹長、戦後三上と改姓)を「俺に構うな、攻撃せよ」と斥けた菅野大尉は遂に帰らなかった。これで、三四三空紫電改隊初代の飛行隊長は三名とも戦死した。
 三四三空は、三月十九日以来米軍の精鋭、F6F、F4U、P51、B29を相手に撃墜総機数約一七〇機の戦果を記録した。しかし、この輝かしい戦果の裏には、四人の飛行隊長をはじめとし、七五人の戦闘機搭乗員の尊い犠牲者を出している。
 戦争末期米軍が制空権を握っていた悪条件のもとで、紫電改隊が海軍戦闘機隊の真価を発揮し得たのは、零戦や雷電の搭乗員が羨む傑作機紫電改の卓越した性能によるものであることは事実である。しかし、これだけではなかった。司令源田大佐の優れた作戦能力と統率力がなかったならば、あれ程の戦果を挙げることはできなかったであろう。
 この源田大佐は、三四三空司令として着任以来、次のことを行った。
(1)戦闘訓練の最重点課目として編隊空戦法をマスターするため、半年間は戦闘に加入せず、錬成訓練に専念することを告げた。
(2)情報収集の一法として、指揮所の通信網を可能な限り整備させた。
 次に、地上指揮所から飛行機隊を直接指揮するため、戦闘機の機上無線電話を改善整備させている。これにより、無線電話が有用な兵器に一変した。これは空対地の電話通信だけでなく、空対空の電話連絡も可能になり、時には米軍機の電話も傍受することもあり、電話交信では隠語を使用することになった。
 源田司令はこの無線電話で指揮したが、空中指揮官の行動を束縛することはしなかった。
(3)戦力を無駄に消耗させるような作戦指導は一度も行わなかった。如何に勇猛果敢で任務達成に積極的な指揮官であっても、戦力を無駄に消耗させることは、航空作戦の本質を理解しない、極言すれば無能な作戦指導といい切ってもよい。
(4)源田司令は部下に対して指導はしても、叱ることはなかった。夕食後、周囲に集まった幹部とトランプしたり、雑談の間に、当時の作戦方針や戦法について、古今東西の戦史、戦訓を例にして静かに語った。これはまた一方通行の講話ではなく、部下の話をも聞く対話でもあった。

 この三四三空を含め、海軍戦闘機隊は、決号作戦に備え極力兵力を温存するよう指示されていたので、反撃は散発的にしか行われず、日を追う毎に敵の本土空襲は激しくなっていった。
 七月二十五日から終戦まで、米機動部隊、マリアナ基地及び沖縄からの本土来襲状況は、当時の大本営報道及び五航艦作戦記録などによれば、次のとおりである。

マリアナ方面
機動部隊
沖縄方面
総計
機種機数
攻撃概要
機種機数
攻撃概要
機種機数
攻撃概要
  
7・25
B29一〇〇 川崎、名古屋、中国、近畿地区
四九〇
〇六二〇以降東海地区から中国まで     (大)一〇〇
(小)四九〇
26
B29五〇
B29六〇
B29一五
二三〇〇から松山
二三〇〇から大牟田各地
 
      (大)一二五
28
P51二四〇
B29三四〇
〇九四五〜一二〇〇 二十八日夜〜二十九日朝にかけて東北東部、東海、中部、四国各地
一〇八〇
〇六二〇〜一二〇〇中国、四国、東海地区 中小型一三六 九州各地 (大)三四〇
(小)一四五六
29
B29二〇
B29三五
B29一〇
一二五〇呉地区
朝鮮、西日本に機雷投下各地偵察等
 
  B24三〇
小型六〇
中小型三〇
一二五〇呉地区
南朝鮮攻撃
(大)九五
(小)九〇
30
P51三五〇
B29一〇
早朝から近畿各地
関東各地夜間来襲
七〇〇
〇五二〇から関東、静岡地区 飛行艇一五
中小型三五〇
二一五〇から九州各地機雷投下
一四〇〇から夕刻まで南九州各地
(大)二五
(小)一四〇〇
31
B29一八 関東信越地区偵察ビラ撒布等
一三
〇二〇〇〜〇四〇〇中部沿岸 中小型二五〇
大型六
船舶を主とし一部市街地 (大)二四
(中小)二六三
8・1
P51二〇
B29六〇〇
〇九二〇来襲阪神地区航空基地、交通施設
夜→二日朝関東、東海、中国地区
 
  B29一五
P38六〇
P47P51八〇
一一〇〇以降九州各地航空基地、船舶、工場 (大)六一五
(小)一六〇
2
PBY二
P51六〇
一〇四〇〜淡路島
京阪神地区
 
      (大)二
(小)六〇
3
P51一〇〇
B29数機
関東地区飛行場市街
 
      (大)三
(小)一〇〇
5
P51七八
B29四〇〇
一一四五〜一二五〇
関東地区
二一三〇〜六日〇三〇三まで東部、中部、四国の中小都市
 
  P38八
中小型一四〇
〃三八〇
朝、偵察
南九州地区
九州全域航空基地
(大)四〇〇
(中小)六〇六
6
P51一二〇
B29四
B29数機
〇八三〇〜関東地区
〇八〇〇広島に原子爆弾投下
 
      (大)六
(小)一二〇
7
B29七〇
P51三〇
B29三五〇
〇九三〇〜豊川地区
西日本地区
 
      (大)四二〇
(小)三〇
8
B29一〇〇 東京地区工場地帯
 
  戦爆連合二六〇 北九州要地の飛行場 (大)一〇〇
(中小)二六〇
9
B29一〇〇
B29数機
尼崎付近海南地区
長崎に原子爆弾投下
一七〇〇
九波に分れ、神町、松島、八戸基地等     (大)一〇三
(小)一七〇〇
10
B29一〇〇
P51五〇
〇九二〇〜東京北部工場地帯
一八〇(朝日)
一六〇〇(上奏書)
〇六〇〇〜〇九〇〇房総半島、霞ヶ浦の飛行場、軍事施設及び奥羽地区来襲 B24四〇
B25四〇
中小型一三〇
九州各地飛行場、基地、船舶攻撃
熊本、大分焼夷弾攻撃一四〇〇まで
(大)一〇〇
(中小)一九一〇
12
   
 
  中小型二〇〇
中小型三九
〇五四〇〜九州各地交通施設及び市街地
〇九四〇松山付近
(中小)二三九
13
   
六〇〇(朝日)
八〇〇(上奏書)
早朝関東一円の航空基地、一部市街地     (小)八〇〇
14
P51一〇〇
B29二五〇
B29一五〇
B29一〇〇
一〇〇〇〜三重、愛知、岐阜
一一四〇〜関東、福島、新潟
九州地区及び広島地区
一二三〇〜大阪地区
 
  B29一五
中小型七〇
〇九〇〇〜近畿地区 (大)五一五
(中小)一七〇
15
   
二五〇
〇五三〇〜関東地区飛行場、市街地     (小)二五〇

7 終戦

八月十五日の正午、終戦の大詔が下った。
 この日の夕刻、停戦命令に先立ち、第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将は、多数の殉忠の将士のあとを追って沖縄の米艦に突入し、特攻作戦に終止符を打った。
 そして同じく、特攻作戦の創始者と伝えられた軍令部次長大西瀧治郎中将も、十六日払暁、次の遺書を残して割腹自刃を遂げた。
「特攻隊の英霊に曰す、善く戦いたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾れ死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。・・・・・・」
 終戦時に残った海軍兵力は次のとおりである。
(1)航空機
 戦闘機 一、五七三、艦攻・艦爆 七一六、陸攻・陸爆 三四三、その他の実用機 八三九、練習機 三、一二七 計六、五九八機(「航空本部整理部記録」)
(2)艦艇
 空母 六、戦艦 四、巡洋艦 一一、駆逐艦 四一、潜水艦 五九、その他省略(戦史叢書「海軍軍戦備」)
 しかし、空母は全部大中小破、戦艦は三隻大破着底、一隻中破、巡洋艦は二隻だけが健在、燃料も欠乏し、ほとんど戦力を喪失していた。

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