第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘
3 ソロモン、ニューギニアでの死闘
| ガ島撤退後のわが軍の戦略的課題は、中部ソロモン及び東部ニューギニアに防衛態勢を固めることであった。 撤退作戦終了後、連合艦隊は、十八年二月八日から十二日にかけて、南東方面部隊に派遣中の瑞鶴飛行機隊の復帰を命じた。基地航空兵力についても兵力整理が行われた。 その結果、南東方面所在基地航空兵力は、二一航戦を基幹とする第一空襲部隊(二五三空、七五一空)及び二六航戦を基幹とする第六空襲部隊(二〇四空、五八二空、七〇一空、七〇五空)となった。二五二空は南東方面の戦闘機不足の現状から一コ分隊(九機)が引続きバラレに残り、主力は二月二十三日マーシャル方面に復帰した。そして、主として第一空襲部隊はカビエンに司令部を置いて東部ニューギニア方面の、第六空襲部隊はラバウルに司令部を置いてソロモン諸島方面の、それぞれの航空戦を担任した。 瑞鶴飛行機隊は零戦二〇機、艦攻八機が二月十八日トラック発、十九日ウエワクに進出、二十七日零戦一九機、艦攻七機がカビエンに移動した。 ラエ輸送(八十一号作戦)の失敗 ガ島攻防戦においてわが軍が苦境にある時、東部ニューギニアにおいても米豪軍の反撃は活発になった。ラエ、サラモア地区に兵力増強の必要を生じ、危険を冒しても、第五十一師団をラバウルからラエに輸送することになった。これが八十一号作戦である。海軍は陸軍航空部隊と協力して輸送船団(陸軍輸送船七隻、海軍運送艦一隻)は八隻の駆逐艦に護衛されて、十八年二月二十八日深夜ラバウルを出港した。 三月三日朝、船団はフィンシェハーフェン東方海域に達していた。快晴であった。上空直衛の担当は午前海軍、午後陸軍となっていた。 〇七五〇、船団の南方に敵機の大群が現れた。まずB17一三機が中高度から水平爆撃した。この時、船団上空には、零戦二五三空一四、二〇四空一二計二六機がいて、B17に攻撃を集中した。〇八〇五には瑞鳳零戦隊一五機が加入した。〇八一〇には、敵機も増えて総数七〇機にも及んでいる。 B17の上空にはP38等の戦闘機群が配されていた。わが零戦隊が中高度のB17に気をとられているうち、ビューファイター一三機が低高度で艦船を銃撃し、続いてB25、A20が超低空爆撃をした。攻撃は二五分も続けられた。 A20これは反跳爆撃(スキップ・ボンビング)である。米陸軍第五航空軍がポートモレスビーで訓練を重ね、実戦に初めて使われたものである。 わが方は、輸送船全部(七隻)、駆逐艦三隻、海軍輸送艦一隻が沈没した。午後単独北上中の駆逐艦一隻が敵機の攻撃により沈没している。 わが零戦隊は、B17と敵戦闘機に注意を奪われていて、敵に完全にだしぬかれてしまった。 この船団輸送の失敗により、その後のニューギニア方面の作戦は、多大の支障をきたすことになる。 「い」号作戦と山本長官の死 「い」号作戦とは、十八年四月上旬、当時のわが空母航空兵力のほとんど全力をラバウル方面陸上基地に進出し、基地航空兵力と合わせてソロモン、ニューギニア方面の敵艦艇及び航空兵力を攻撃した航空作戦の呼称である。 機動部隊(第三艦隊)の進出航空兵力は、「瑞鶴、翔鶴、隼鷹、飛鷹」搭載の、零戦一〇三、艦爆五四、艦攻二七計一八四機であった。基地航空兵力約一六〇機と合わせて、総数三五〇機足らずの兵力で、ソロモンの危機を救い、戦局を一気に挽回しようという意気込みであった。 山本長官は、陣頭指揮のため、四月三日トラックからラバウルに進出した。 四月七日から十四日まで、延零戦四九一、艦爆一一一、陸攻八一計六八三機が出撃している。 「い」号作戦総合戦果は、巡洋艦一、大型駆逐艦二、輸送船一八計二一隻を撃沈、輸送船八隻を大破、輸送船一隻を小破、飛行機一三四機(うち不確実三九)を撃墜、飛行機一五機以上地上撃破という報告を出した。わが方の被害(自爆及び未帰還)は、零戦一八、艦爆一六、陸攻九計四三機である。 しかし、実際の戦果ははるかに少なかった。米側資料は、連合軍側の損害はソロモン、ニューギニア方面を通じて駆逐艦一隻、油槽船一隻、輸送船二隻沈没、飛行機二五機喪失に過ぎなかった、と述べている。 戦闘状況については、四月七日のガ島方面敵艦船攻撃の一例だけを述べる。 零戦一五七機、艦爆六七機が、二つの制空隊と四つの攻撃隊に分かれて進攻した。連合軍は、沿岸監視員の通報によって、あらかじめ艦船は退避し、戦闘機以外の飛行機は空中退避した。米戦闘機隊は、七六機がレーダーの誘導のもとでサボ島上空で待ち構え、わが零戦隊に対して優位な態勢から襲いかかった。空戦空域は拡がり、ルッセル諸島沖、ツラギ、ガ島東方上空に移っていった。米軍が七機失ったのに対して(米側資料)、わが方の自爆及び未帰還は零戦一二機、艦爆九機に及んでいる。 わが艦船攻撃の成果は、巡洋艦、駆逐艦各一隻、輸送船二隻を中破、輸送船一隻を小破したと報告されたが、米側資料によれば、米軍の被害は、駆逐艦一隻沈没、輸送船一隻損傷となっている。しかし、わが軍の攻撃によって、連合軍は北上反攻の作戦予定を一〇日間延期せざるを得なくなった。 「ニミッツの太平洋海戦史」は、「い」号作戦について次のように論評している。 「この成果は決して小さくなかった。駆逐艦一隻、コルベット艦一隻、給油艦一隻、輸送船二隻を撃沈し、二五機の連合軍飛行機を破壊した。しかし、日本は四〇機の犠牲を出し、空母の第一線搭乗員の大きな損失は、日本の空母部隊の戦力をこれまで以上に大きく低下させたのである。」 わが機動部隊は、この作戦によって零戦一四、艦爆一六軽三〇機を自爆、未帰還等で失い、零戦六機、艦爆一七機が被弾した。 作戦が終わって研究会が行われた。この研究会で、戦闘機隊の戦力の低下が問題となった。その内容については、第四章(戦訓の部)で詳述される。あれだけ優勢であった零戦隊も、この頃は、敵と互角になったとみられた。 四月十八日、山本長官一行は、ブイン方面激励視察のため、ラバウル東飛行場で一式陸攻二機に分乗、〇六〇五に離陸した。一番機が長官機、二番機が参謀長機で、バラレに〇七四五到着する予定であった。 直掩の戦闘機は、二〇四空の森崎武中尉指揮官とする六機に過ぎない。列機の中には、後日零戦と紫電改で撃墜王として勇名をはせる杉田庄一飛兵長がいた。山本長官の部隊視察にあたっては、途中の空路での敵機襲撃の危険性も検討された。しかし、当時ブインには敵機は一〜二機連日のように偵察に来るが、ブインとラバウル間の制空権はわが方にあったため、零戦六機の護衛でよいということになたようである。 「これより先、四月十四日早朝、米太平洋艦隊無線部隊は無線傍受に成功した。山本長官の詳細な視察計画を知ったニミッツ提督は、ハルゼー中将に連絡し、ノックス海軍長官とルーズベルト大統領に山本長官機撃墜の承認をとりつけた。ガダルカナルにいるソロモン地域航空部隊司令官マーク・A・ミッチャー海軍少将から、P38長距離戦闘機を使用し、待ち伏せるという返電が届いた。ニミッツは最終的な命令を出した」(「提督ニミッツ」要約) 四月十八日〇五二五、ジョン・ミッチェル陸軍少佐のP38戦闘機がガ島ヘンダーソン飛行場を離陸した。二機故障したので、一六機になったP38がボーゲンビル島上空を目指した。 〇七四〇頃、長官機がボーゲンビル島ムッピナ岬付近に差しかかった時、P38が突如低空から襲いかかり、あわただしい空戦が始まった。 陸攻一番機は、胴体一面火に包まれて、〇七五〇頃モイラ岬の三〇度九・八カイリのジャングル内に突入し、炎上した。二番機も海上に着水し、火災を起して沈没し、宇垣纏参謀長と他の二名だけが奇跡的に助かった。 この空戦で、わが零戦隊六機には被害がなく、P38隊は一機を失っている。 山本長官遭難の報告を受けた海軍中央当局は、山本長官の行動が暗号解読によって諜知された疑いがあると判断し、調査させた。しかし、使用した乱数表は四月一日変更されたばかりのものであり、論理的に解読不可能と考えられ、事件は偶発的なものとして片付けられたようである。 十九日のサンフランシスコ放送は、米海軍省発表として、十八日ソロモンにおいて米陸軍機が日本軍陸攻二機、零戦二機を撃墜し、一機を失った旨を簡単に放送した。暗号解読を悟られない周到な処置である。 スピットファイヤーと空戦 わが零戦が英空軍の名機スピットファイヤーと初めて交戦したのは、十八年春である。この時の零戦航空隊二〇二空(一七年十一月一日の改編で、三空が二〇二空と改称)は、緒戦比島で、台南空(二五一空)と共に名声を挙げ、その後蘭印航空戦で活躍した。常勝不敗の戦績をあげた輝かしい戦闘機隊である。 十七年春から夏にかけて、陸攻隊を直掩して、豪州のポートダーウィン進攻を繰り返し、米軍のP40に対して圧倒的な強みを発揮している。 四月二十五日は、飛行隊長相生高秀大尉が零戦一五機を、四月二十七日には分隊長黒澤丈夫大尉が零戦二一機を率い、それぞれP40九機(うち不確実二)、P40一九機(うち不確実六)撃墜を報じている。 八月二十三日、陸攻との戦爆連合進攻作戦で、分隊長戸梶忠恒大尉指揮の零戦二七機はP40及びP39と空戦し、敵機一三機(うち不確実二)の撃墜を報じたが、わが方も四機を失うという今までにない大きな被害があった。いずれもベテラン・パイロットで、そのうち三機は空中衝突によるものらしいと、塩水流俊中尉が回想している。その一人が、掩護隊指揮官戸梶大尉であった。 九月十七日、零戦二一機(相生飛行隊長指揮)はラバウルに進出、台南空司令の指揮下に入り、ガ島航空撃滅戦に参加し、連日のようにガ島進攻、船団直衛、要地防空任務に奮闘した。十一月一日ラエ輸送船団直衛を最後に、南西方面に復帰し、ケンダリー基地で留守隊と合同して、練成訓練を続けている。 十八年一月末、石川信吾少将が二三航戦の司令官としてケンダリーに着任し、二〇二空の戦力が回復した二月下旬、北豪攻撃を下令した。 三月二日、零戦隊二一機、収容隊陸攻九機は、ポートダーウィン昼間攻撃再開の火蓋を切った。零戦隊は、バチェラー飛行場に突入、空戦と在地機銃撃により、戦果(三機撃墜、在地機三機炎上・五機撃破)を報じ、全機無事帰還した。本攻撃の指揮官相生少佐は、この攻撃を最後に転出し、その後任には鈴木實少佐が発令された。 戦史叢書には、三月十五日、零戦二六機(指揮官小林實大尉)、陸攻一九機の攻撃隊が進攻し、この時、P43、P39、スピットファイヤー等計一五機(うち不確実五)の撃墜を報じたが、わが方も零戦一機を失った、と記されている。 スピットファイヤー五月二日、零戦二六機(指揮官鈴木少佐)、陸攻一八機がダーウィンに進入した。陸攻隊が爆撃終了後洋上へ退避する頃になって、やっとスピットファイヤー約二五機及びP40約一〇機(いずれも英国標識)が邀撃を始め、彼我入り乱れての空戦となり、零戦隊は敵機二一機(うち不確実四)を撃墜した。わが方は零戦隊、陸攻隊各々七機が被弾したが、全機無事クーパンに帰着した。 この攻撃に対する豪側発表は、日本機六機撃墜、不確実撃墜四機、八機に損傷を与え(わが損失は0、被弾一四)、スピットファイヤー八機喪失(わが発表は撃墜二一)、パイロット二名戦死である。この結果、スピットファイヤー隊は、燃料搭載量の増加、邀撃の早期実施、格闘戦の回避等を決定した。 スピットファイヤーは一九四〇年(昭和一五年)に、英本土防衛戦でドイツ空軍の攻勢を食い止めた救国の戦闘機であることは、あまりにも有名である。 十七年秋、ヨーロッパ戦線の経験者を多く含む約一〇〇機のスピットファイヤー部隊が英本国から到着、十八年初頭ポートダーウィン周辺の飛行場に展開した。その指揮官クライブ・R・コールドウエルは英空軍中佐のベテランの戦闘機乗りである。 零戦とスピットファイヤーとの性能の比較については、鈴木少佐が戦後次のように回想している。(戦史叢書「南西方面海軍作戦、第二段作戦以降」)。 「スピットファイヤーは全くすばらしい飛行機だった。零戦に比し最大速度、高々度性能で特に優れていた。最大速度は零戦よりもはるかに速く、特に突っ込んでからのスピードは驚く程だった。高度は一〇、〇〇〇メートル以上一一、〇〇〇メートルぐらいまで上がったと思う。わが方は九、〇〇〇〜一〇、〇〇〇メートルがせいぜいで、高々度では空戦性能ががたっと落ちたが、幸い空戦が八、〇〇〇メートル以下であったのでやれた。先方の戦史(「対日空戦」)には零戦の方が上昇が良いとあるが実際はあまり変わらなかった。零戦が優れていたのは旋回性能だった。したがって格闘戦に敵が入ってくれれば自信をもって撃墜できた。しかし敵もこれは承知していたようで、一撃航過の邀撃が多かった。 当方としては豪州攻撃には飛行時間一、〇〇〇時間以上の者ばかり連れていった」 その後九月まで数回、零戦とスピットファイヤーの空中戦が展開され、その度に常に零戦が有利な戦いを進めている。二〇二空がスピットファイヤーに善戦できたのは、他の零戦航空隊に比し、熟練者が多く生存していたことと、猛訓練による成果とによるものと思われる。 十八年五月以降の南東方面航空消耗戦 五月十八日、南東方面の基地航空部隊は「第一基地航空部隊」と呼称された。その兵力部署を次に述べる。 |
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区 分
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指揮官
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部 隊
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兵 力
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配 備
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| 第五空襲部隊 | 二五航戦司令官 | 一五一空 | 陸偵四〜五機 | ラバウル東 |
| 二五一空 | 零戦約六〇機 陸偵七機 |
〃 |
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| 七〇二空 | 零戦約五〇機 | ラバウル西 | ||
| 第六空襲部隊 | 二六航戦司令官 | 二〇四空 | 零戦三〇〜三五機 | ラバウル東 |
| 五八二空 | 零戦二〇〜二五機 艦爆約二〇機 |
ブイン | ||
| 七〇五空 | 陸攻三〇〜三五機 | テニアン (一部ラバウル西) |
| (注)第五空襲部隊は、五月十日にラバウルに進出、新たに夜間戦闘機(二式陸偵に斜銃装備、のち月光)が加えられた。第一空襲部隊(二一航戦-二五三空、七五三空)は五月十二日、マリアナに後退して再建開始。二五戦司令部はラバウル、二六航空戦司令部はブインに配置された。 これらの南東方面配備の海軍航空兵力は総計二百余機であった。なお、陸軍第六飛行師団は約一八〇機で、主としてニューギニア方面に展開していた。 空母部隊引揚げ後、第一基地航空部隊は、ソロモン、ニューギニアに対する航空撃滅戦、艦船攻撃及び防空戦闘を続けてきたが、敵航空兵力との懸隔が甚しく、見るべき成果を挙げ得ず、航空消耗戦は激化していった。 一方、敵は、増強された航空兵力を背景として昼夜を問わず、多数機で各方面に来襲を繰り返した。米側資料によれば、五月中に、ムンダに五一六機、コロンバンガラに三六七機、レカタに二六三機、ブイン、バラレ、ショートランドに合計一八一機、サラモア方面に四四四機、ラエに二六四機、フィンシュハーフェンに四三機、ラバウルに七九機が来襲している。空襲によるわが飛行機、艦艇等の被害も少なくなかった。 当時、ラバウルには連日のようにB17、B24が来襲し、零戦隊が探照灯の協力の下に邀撃していたが、全く効果がなかった。 五月二十一日〇二〇〇過ぎ、二〇ミリの斜銃を装備した二五一空二式陸偵一機が、来襲したB17六機のうち二機を無照射で撃墜した。その後、二五一空陸偵隊は着々と戦果を挙げて、友軍の士気を挙げている。 南東方面の航空作戦の頽勢を挽回するために、それまでの小規模航空作戦に代えて、再び「い」号作戦のような大作戦を企図し、六〇三作戦を実施することになった。この作戦の概要は、戦闘機だけでガ島西方のルッセル島方面に進撃し、敵機を誘出撃滅する事前航空撃滅戦(「ソ」作戦と呼称)及び「ソ」作戦終了後機を見て実施する戦爆連合によるガ島方面艦船攻撃の航空撃滅戦(「セ」作戦と呼称)とから成っている。 第一次「ソ」作戦 六月六日、二五一空零戦四〇機がブカに、二〇四空零戦三二機がブインに進出した。五八二空零戦隊は既にブインで作戦中であった。 七日、攻撃隊は、五八二空飛行隊長進藤三郎少佐指揮の下に、五八二空、二〇四空、二五一空零戦合計八一機で構成され、ルッセル島方面に進撃した。二〇四空零戦八機は六〇キロ爆弾二個ずつで爆装していた。 攻撃隊は、ガッカイ島付近でF4F八機と遭遇し交戦後、ルッセル諸島上空に突入、邀撃してきたP38、P39、F4F、F4Uなど数十機と激しい空戦を交えた。 この日の空戦では、敵は戦闘機を数段に配備して邀撃し、P38、P39は技量も相当なもので、戦意も強いように見受けられた。 わが方は、撃墜四〇機(うち不確実八)の戦果を報じたが、未帰還機九、大破五機という損害を出している。 こうして第一次「ソ」作戦は終了し、わが方の損害も大きかったが、大きな戦果を挙げたものと判断された。米側資料は、連合軍は一一〇機の戦闘機で邀撃し、零戦二四機を撃墜、七機を失ったと述べている。 翌八日、ラバウルで第一次「ソ」作戦に関する研究会が行われた。 当時、米軍は二機を最小単位とする編隊空戦法が普及徹底していた。性能が優秀な零戦に対抗するためには、零戦一機に対して二機を当て、相互に見張り支援し合った。編隊空戦の真髄を知らず、その訓練も不十分な経験の浅い零戦搭乗員は、米戦闘機隊に喰われていった。練達の零戦搭乗員も、味方機の相互支援を受けることが少ないために、一瞬の見張り不足で、盲点を衝かれて、撃墜されていくことが多くなっていった。 この実績を知り、研究心旺盛で、名飛行隊長として信頼されていた二〇四空飛行隊長宮野善次郎大尉は、この時の研究会で次のように発言している。 「二〇四空では、五月以降、全作戦で四機一コ小隊を使用してきた。対戦闘機戦闘では、最小限一コ小隊四機で、二コ小隊以上が必要である。また、一隊が攻撃に入れば、他の一隊は支援隊となり、高度差を少なくして必ず支援する必要がある。いかなる場合でも四機が最小限の単位で、これがこわれてバラバラになると被害が出る。従来は、同時に戦闘に加入するのは、せいぜい二〜三機であったが、これを最小限四機にすれば、なんとか劣勢でも切り抜けられる」 第一次「ソ」作戦では、二五一空が三機一コ小隊編制を踏襲して被害が多く(未帰還六、大破四)、一方四機一コ小隊編制二〇四空が被害が少なかった点(未帰還三、大破一)を考慮されたこともあって、研究会の討議の結果、四機一コ小隊編制で急速訓練することとなった。 第二次「ソ」作戦 十二日、零戦二五一空三二、二〇四空二四、五八二空二一計七七機が二〇四空宮野大尉の指揮の下に出撃した。小隊の編成は五八二空が三機、他隊は四機である。ルッセル島上空で、約三〇分間敵戦闘機約七〇機と交戦した。撃墜二九機(うち不確実六)を報じ、被害は未帰還機六機、被弾七機である。米側資料は、十二日の日本軍の攻撃は前回の七日の場合とほぼ同様な結果に終わったと述べている。 「セ」作戦 六月十六日、攻撃隊は、総指揮官進藤少佐の指揮の下に、掩護零戦隊七〇機(二五一空三〇、二〇四空二四、五八二空一六)、五八二空艦爆二四機が、ブイン上空で合同した。艦爆隊を中心に、その左右と後方にほぼ同数の零戦が掩護配備に就いた。ガ島南西方から進入、P38八機と遭遇、零戦隊はたちまちこれを撃退し、ルンガ泊地に殺到した。艦爆隊は敵艦船群目がけて急降下爆撃、掩護零戦隊は突入と同時に、敵戦闘機約一〇〇機と二〇分以上にわたり、空戦を続けた。 撃墜二八機(うち不確実三)の戦果を報じたが、米側資料によれば、米軍戦闘機一〇四機のうち、失ったのは六機である。輸送船一隻と戦車揚陸艦一隻が大損害を受けたが、いずれも沈没をまぬがれている。 わが方の損害は、零戦一四機未帰還、一機が不時着水、二機被弾、艦爆一三機未帰還、四機被弾という大きなものであった。特に艦爆隊の損害は未帰還だけでも五四%に及ぶ致命的なものである。 この戦闘で宮野大尉を失ったのは痛かった。二〇四空は士官操縦者皆無という最悪の事態に陥り、戦闘機隊の空中指揮を渡辺秀夫上飛曹がとっている。 第一基地航空部隊指揮官は、十六日夜、「セ」作戦の終結を発令して、六〇三作戦は終わった。 十九日、「セ」作戦の研究会が開かれた。 1、敵のP39、P40の編隊戦闘が巧妙になったので、その対策が必要である。 2、掩護兵力を倍加しないと九九艦爆によるガ島昼間強襲は無理である。新機種(銀河、流星)が必要。 3、ソロモン方面のわが飛行場が不足である。 4、零戦隊の一部が先行襲撃ののち、艦爆隊が(できれば敵機着陸後)攻撃に入る方が有利である。 というのが、主要なものである。 六〇三作戦は大戦果を挙げ得たものと信じられていたが、実質的には敵にほとんど影響を与えていなかった。逆に、わが方が大被害を受け、戦力は急速に消耗した。 一方、米軍は豊富な国力を活かし、着々と反攻の準備を進めていた。ガ島の飛行場の整備を例にとる。 「ヘンダーソン飛行場は、三つの戦闘機滑走路とともに、完全な爆撃機基地に拡大された。その東方五カイリにあるカーニイ飛行場はヘンダーソンより大きな爆撃機基地で、十八年四月一日に使用できるようになった。当時、ガ島には各種飛行機三〇〇機以上があり、ニュージーランド空軍、米国の陸海軍、及び海兵隊の爆撃機と戦闘機が互に協同作戦を実施した」(「ニミッツの太平洋海戦史」) 中部ソロモンと東部ニューギニアに大規模攻撃の準備を整えたハルゼー、マッカーサー両部隊は、十八年六月三十日、中部ソロモンの航空基地ムンダ対岸のレンドバ島、ニューギニア東方のウッドラーク、トロブリアン両島、ラエ南方のナッソウ湾に同時上陸を始めた。引続いてニュージョージア島のビル港、バンク島にも上陸が行われた。ハルゼー部隊の最初の主要攻略目標はニュージョージア島ムンダ基地である。 南東方面部隊指揮官草鹿中将は、レンドバ方面の敵艦船攻撃を命ずるとともに、マリアナで再建訓練中の二一航戦に、作戦可能兵力をラバウルに進出っせるよう命じた。連合艦隊は、二航戦飛行機隊を南東方面に投入することにした。 六月三十日の第一基地航空部隊のラバウル方面所在部隊の使用可能機数、配備基地は次のとおりである。 第五空襲部隊 二五一空 零戦三一機 ラバウル東 二式陸偵(夜戦)一機 ラバウル東 七〇二空 陸攻一九機 ラバウル西、バラレ 一五一空 百式司偵三機 ラバウル東 第六空襲部隊 二〇四空 零戦約二〇機 ラバウル東 五八二空 零戦約二〇機 ブイン 艦爆約一一機 カビエン 七〇五空 陸攻約一九機 ラバウル西、バラレ 両空襲部隊は六〇三作戦による損耗が大きかった。 六月三十日、レンドバ方面への攻撃は、全力を挙げて三回行われた。かつては連合軍を畏怖させていた零戦隊も、疲労と兵力の寡少から、眼前の敵に痛打を与えることはできなかった。この日零戦は三回とも出撃し(計七五機<うち一一爆装>)、一四機未帰還、陸攻は第二次攻撃において二六機(雷装)出撃し、六五%強の一七機未帰還となっている。第三次攻撃においては、水上機隊零観一三機は敵戦闘機三〇機と交戦、未帰還七機を出している。この大被害はその後の航空戦に影響を及ぼした。 この夜、第一基地航空部隊指揮官は七月初め進出の予定であった二〇一空の急速進出を下令している。 |
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月・日
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行 動
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被 害
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七・一
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零戦三四、艦爆六 レンドバ攻撃 | 零戦五、艦爆三 | 〔戦果なし〕 | |||
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二
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零戦二九、陸軍機(重爆一八、戦闘機二三)レンドバ攻撃 | 三式戦 三 | 〔米軍人知、戦史五九,戦傷七七〕 | |||
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二
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龍凰飛行機隊(零戦一一、艦爆一三)、七五一空派遣隊(陸攻一二)、二五一空、二〇四空の補充機が進出(計五八)、さらに五日までには龍凰飛行機隊の残部、二五三空の派遣大河進出し、増延機は、陸攻一二、零戦五六、艦攻九、陸偵二、合計九七 | |||||
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三
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零戦四八 レンドバ上空でP38約四〇と空戦 | なし | 撃墜九(一) | |||
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四
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零戦四九、陸軍機(重爆一七、戦闘機一七)レンドバ攻撃、この攻撃で陸軍航空部隊は作戦中止。 | 零戦一不時着、重爆六、戦三未帰還 | ゼロ戦は撃墜九(二)、陸軍は撃墜一四〔上陸用船舶数隻大破〕 | |||
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七
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零戦四三、陸攻六ルビアナ島(レンドバ島の北)敵陣地攻撃。 | 零戦二、陸攻二 | 撃墜一五 | |||
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八
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零戦三九、艦爆一二、ニュージョージア島ライス湾敵陣地攻撃. | なし | ||||
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九
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総長、零戦六レンドバの大発レンドバの大発群攻撃。昼、零戦四〇レンドバ上空で敵戦闘機約50と空戦。 | 零戦一 | 大発三隻撃沈、撃墜五 | |||
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九
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二四航戦の七五二空派遣隊陸攻二〇ラバウルに進出。陸攻隊五〇に増勢。 | |||||
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一〇
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零戦五〇機レンドバ攻撃、敵を見ず。 | |||||
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一一
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零戦四七、陸攻八エノガイ敵陣地攻撃、敵戦闘機約三〇と空戦。 別動の零戦一五、爆戦八エノガイ陣地攻撃、敵戦闘機約二〇と空戦。 |
零戦一、陸攻一、零戦一 | 撃墜二一 撃墜五(二) |
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一二
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零戦四七、艦爆一二ニュージョージア島北端ビスビス岬南方の敵陣地攻撃,敵戦闘機約二〇と空戦 | 零戦四、艦爆一 不時着 | 撃墜五 | |||
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一五
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零戦四七、陸攻ルビアナ島攻撃、敵戦闘機と空戦。七五一空派遣隊准士官以上全滅、陸攻の昼間強襲取りやめ。 | 零戦五、陸攻六 | 撃墜三一(三) | |||
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一五
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二〇一空主力三四機がラバウルに進出、二四航戦から二一航戦に編入され、隼鷹飛行機隊も、ラバウル、カビエンに進出、二航戦司令部もラバウルに進出 | |||||
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一七
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ブイン方面は連や大型機が来襲。朝,大型機一九、爆撃機四8、戦闘機約一〇六来襲、零戦四八邀撃 | 零戦一三 | 撃墜二〇(一) | |||
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一八
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朝、ブインに焼く一〇〇以上来襲、零戦七邀撃 | 零戦三 | 撃墜二二 | |||
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一八
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南東方面航空部隊の零戦部隊名及び稼動兵力は、二〇一空、二〇四空、二五一空、龍凰、隼凰艦戦隊、零戦約一二五、陸偵二〜四 | |||||
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二〇
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零戦延七七夜間部隊(七戦隊、三水戦等の水上部隊)の帰島掩護 | なし | ||||
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二一
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零戦五八、艦爆レンドバ攻撃 | なし | 駆逐艦一、輸送船一、戦闘機二二(二) | |||
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二五
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零戦五七レンドバ航空激減戦。 | 零戦六 | 撃墜B24、B25,戦闘機二二(二) | |||
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二六
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B24 四、戦闘機五〇ブインに来襲、零戦五八邀撃 | なし | 撃墜戦闘機八 | |||
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二七
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未明、夜戦邀撃 | なし |
撃墜大型機二 |
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二九
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零戦四七レンドバ進撃、敵を見ず | なし | ||||
| 八月に入ると、ニュージョージア島の戦勢は、米軍の猛攻によって著しく変化した。遂にムンダ基地は放棄され、陸軍の守備隊南東支援は、バアンガ島とコロンバンガラ島に後退した。 ハルゼー提督は、草鹿中将が守備兵力を増強したコロンバンガラ島を素通りして、八月十五日朝、米第三水陸両用部隊にベララベラ島の南東部のビロア南岸に、大規模な上陸作戦を敢行させた。この作戦によって、コロンバンガラを無力化し、直接ボーゲンビルに脅威を加えたのである。 八月三日、第二機動空襲部隊(二航戦)と第六空襲部隊で第一連合空襲部隊が編成され、二航戦司令官の統一指揮下に作戦を実施することになった。また、各空襲部隊は同一機種で左のように編成された。 偵察部隊 陸偵 第五空襲部隊 陸攻 第六空襲部隊 零戦及び夜戦 第二機動空襲部隊 艦爆及び艦攻 八月の基地航空部隊の作戦は次のとおりである。 |
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月・日 |
行 動
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被 害
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一 |
零戦三八、艦爆六レンドバ敵艦船攻撃。 | 艦爆一 | 輸送船一、駆逐艦、大発三隻以上撃沈 | |||
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四
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零戦三一、ムンダに来襲中の敵戦闘機約七〇機と空戦 | 零戦五 | 撃墜二五 | |||
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七
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零戦四八、艦爆一二レンドバ敵艦船攻撃。 | 艦爆一 | 輸送船二、海トラ、大発八撃沈 | |||
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一〇
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零戦三一、ムンダ上空で敵戦闘機一一と空戦。 | 零戦三 | 撃墜六(一) | |||
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一三
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零戦三一ムンダ上空で敵十数機と空戦。 | なし | 撃墜P39 五 | |||
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一五
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ベラベラ島上陸船団攻撃(第一次)零戦四八、艦爆六、敵戦闘機五〇と空戦、(第二次)零戦四八、艦爆一一、敵戦闘機約二〇以上と空戦。 (第三次)零戦三二、艦爆八揚陸点攻撃。陸攻一六機ガッカイ島沖輸送船団攻撃 |
零戦六、艦爆七 零戦三、艦爆一 |
輸送船三隻撃沈 陸上火災二ヶ所 巡洋艦二、輸送船一撃沈 |
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一八
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ベラベラ敵艦船攻撃(第一次)零戦四八、艦爆一〇、敵戦闘機一〇と空戦(第二次)零戦四一、艦爆六、天候不良で艦爆弐のみ攻撃。 | 零戦一大破 | 駆逐艦一に直撃弾一、撃墜四 | |||
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二一
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零戦四六、艦爆二三ビロア的艦船攻撃、敵戦闘機二〇と空戦 |
なし なし |
輸送船二大破、撃墜一三 | |||
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二四
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零戦四七、艦爆一二ベラベラ揚陸点攻撃、敵戦闘機十数機と空戦。 | 零戦一 | 特大発撃沈、撃墜七(二) | |||
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二五
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零戦四〇、艦爆一二ビロア陣地攻撃。 | 艦爆一 | ||||
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三〇
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零戦四四、艦爆一二ビロア陣地攻撃。 | 零戦二 | ||||
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三一
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零戦三二、艦爆一一ビロア付近敵艦船攻撃,敵戦闘機十数機と空戦 |
艦爆三 |
巡洋艦、駆逐艦各一大中破、撃墜三 |
| サイパン(二五三空)、テニアン(七五一空)で再建訓練中の二一航戦は、戦線復帰を命ぜられ、二五三空は九月三日ラバウル東飛行場の南東約一〇カイリに新設したトベラ飛行場に配備された。 九月一日付で十一航艦の編制替えが行われた。二一航戦解隊に伴い、同戦隊に所属していた一五一空は十一航艦付属に、二〇一空は二六航戦に、二五三空と七五一空は二五交戦にそれぞれ編入替えされた。五〇一空は二五航戦から二六航戦へ、七〇五空は二六航戦から二五航戦に配属が変更され、二五一空は夜間戦闘機専門の航空隊となっている。 南東方面に進出作戦中であった二航戦司令部と同戦隊飛行機隊は九月一日、そのまま現地部隊に編入、二航戦司令官は二六航戦司令官に補職され、「隼鷹、龍鳳」各艦の艦爆隊及び艦攻隊は五八二空へ、同戦闘機隊は二〇四空へそれぞれ編入された。そして別に、九月一日付で二航戦司令部が、同月十五日付で二航戦飛行機隊それぞれ新編されている。 九月一日現在十一航艦の部隊は次のようになった。 二二航戦 二五二空(零戦)、五五二空(艦爆)、七五五空(陸攻)、 八〇二空(水戦) 二五航戦 二五一空(夜戦)、二五三空(零戦)、七〇二空(陸攻)、 七〇五空(陸攻)、七五一空(陸攻) 二六航戦 二〇一空(零戦)、二〇四空(零戦)、五〇一空(艦爆)、 五八二空(艦爆) 付属 一五一空(陸偵) 敵のムンダ基地、ベララベラ上陸により、遂に敵に中部ソロモン攻略の足場を与えてから、彼我の航空勢力は急激に悪化し、此の方面の防衛体制は崩れ始めた。 敵はベララベラ島ビロア飛行場を九月二十四日に完成し、敵の陸上部隊は我が軍が守備しているコロンバンガラ島に迫った。九月二十八日から三十日の間、まず同島の我が守備隊約一二、〇〇〇名のうち約二、〇〇〇名が大発で隣のチョイセル島に移動し、十月二日夜にはコロンバンガラ島から主力部隊が撤退し、十月十三日には全員がブインに到着した。十月六日にはベララベラ島からの撤退が行われた。昼間、戦闘機部隊は上空警戒に任じた。中部ソロモンからの撤退は予想以上に順調に行われた。 九月中は、ニューギニア方面の戦況が特に急迫し、ダンピール海峡確保のため航空作戦の重点をこの方面に指向しなければならなくなった。そのため、艦爆隊、零戦隊の大部は九月上旬及び下旬に、一時ラバウルに集中して、ニューギニア方面の作戦に従事している。 十月中、零戦隊は、陸攻隊・哨戒機・輸送任務の陸攻隊の直掩、航空撃滅戦、敵陣地攻撃、基地上空警戒・邀撃、及び友軍艦船上空直衛等に延三、〇八二機が出撃し、六六機の自爆・未帰還機の損害を出している。十月十二日、ラバウルに対する大編隊の空襲以来連日空襲が続き、ラバウル上空哨戒と邀撃戦、ラバウル出入艦船上空直衛のため、延約一、三〇〇機が出動した。その他哨戒機の直掩として延約一八〇機、艦爆隊の直掩として五回、爆装零戦とともに敵地攻撃に二回、進撃して敵機撃滅戦を敢行(ブナに対して六〇機、ムンダに対し六六機)すること三○回であった。 米機動部隊の中部太平洋方面来襲(F6Fヘルキャットの出現) 米海軍は、十八年八月末までに、新しい高速正規空母二七、八〇〇トン、三二・七ノットの「エセックス」「ヨークタウン」(ミッドウェー海戦で沈んだ同空母名の復活)「レキシントン」(珊瑚海海戦で沈んだ同空母名の復活)「バンカー・ヒル」が、太平洋艦隊のベテラン空母「エンタープライズ」と「サラトガ」に合同し、太平洋艦隊の正規空母は六隻となった。これに、高速軽空母一一、〇〇〇トン、三二ノットの「プリンストン」「ベローウッド」「モントレー」「カウペンス」「インディペンデンス」の五隻が加わっている。 F6Fヘルキャット十八年春、中部太平洋の主要戦闘力として第五艦隊が編成された。この第五艦隊は、高速空母機動部隊と水陸両用部隊から成り、これに陸上基地航空部隊も加えられ、補給修理のサービス部隊(移動部隊も含む)まで付けられ、戦力の統合発揮が可能になった。 高速機動部隊の基本編成は、四コ任務群から成り、各任務群は正規空母二、軽空母二、高速戦艦一〜二、巡洋艦三〜四、駆逐艦一二〜一五で構成された。 この強力な艦隊の司令長官は、ミッドウェー海戦で信じられない大勝利を米国にもたらしたスプルーアンス中将がなった。 この史上最強の艦隊の空母戦闘機は、F4Fから最新鋭のF6Fヘルキャットに機種を更新している。 日米開戦から一年間は、零戦はF4Fに対して圧倒的に優位であった。零戦は、最高速ではF4Fとほぼ同じであったが、上昇力が優れ、旋回性能は抜群であり、少数精鋭主義の訓練と支那事変での体験を経た零戦搭乗員が、一対一の格闘戦に巻き込めば、F4Fを撃墜するのは容易であった。しかし、サッチ・ウィーブ戦法が米海軍に普及し、零戦一機に対して二機のペアで編隊空戦を行うF4Fを撃墜するのは容易ではなくなった。零戦の弱点である防御の脆弱面(パイロット及び燃料タンクの防護装置の欠如)や、急降下時の加速不良を狙われ始め、一撃離脱戦法やサッチ戦法が使用されだすと、零戦は数的に優勢なF4Fに対して苦戦するようになった。十八年の春には、零戦とF4Fの対戦は互角となっている。米軍はソロモン方面にて航空消耗戦を強いるようになり、零戦隊は練達の搭乗員が次々と戦死し、戦力は急速に低下し始めた。零戦が苦境になった時に登場してきたのがF6Fである。 十八年一月、量産型F6F−3が米軍に引き渡された。F6Fは、旋回性能は零戦よりも劣るが、パイロットと燃料タンクの防弾装置や機体の強度を重視し、その重量増加を零戦の二倍の馬力のエンジンでカバーしている。 米軍は、まず高速空母部隊に小規模の戦闘を経験させ、ステップ・バイ・ステップでマーシャル諸島攻略を進めることにし、最初の目標として、マーカス島(南鳥島)を選んだ。 九月一日、「エセックス」「ヨークタウン」「インディペンデンス」の三隻の空母を基幹とする機動部隊が、六次にわたり延二七五機で南鳥島を攻撃し、この島にあった飛行機全機(陸攻六機)を破壊し、陸上施設に大損害を与えた。来襲した艦上機はSBD、TBF、F6Fであり、そのうちF6F三機、TBF一機を対空砲火によって失った。これがF6Fの最初の出撃であるが、空戦は行われなかった。 九月十九日早朝、戦爆連合の空母機がタラワに五〇機、一〇機、一〇機の三回、ナウルに三〇機、マキンに一〇機、アパママに一機来襲している。 九月二十日午前、B24二〇機がタラワに来襲した。前日マロエラップから前進した二五二空零戦一二機は、これを邀撃し、うち一機を撃墜し、七機に黒煙を吐かせ、全機帰着したが、五機が被弾し、うち一機の搭乗員は重傷を負った。 十月六日、ウェーク島のレーダーは、○二四二(日の出○三四六)米機を捕捉した。その二分後に戦爆連合の艦上機の空襲が始まった。二五二空零戦二三機(飛行隊長・周防元成大尉指揮)は、米機来襲の合間を縫って発進、邀撃に向かった。陸攻隊は離陸する暇がなかった。 ウェーク島上空では、零戦とF6Fの凄絶な空中戦が展開された。零戦とF6Fの初めての対決である。 米機の来襲は○二四四から一○四○まで続き、延べ四〇〇機にも及んだ。 この戦闘で、我が方は撃墜九機(ほかに不確実五)の戦果を報じたが、零戦の未帰還一四機、自爆一機、炎上六機、陸攻の炎上一六機、大破七機の被害を出している。 六隻の空母を基幹とした米機動部隊は翌日も来襲し、空襲と艦砲射撃を実施した。米側資料によれば、両日の米機動部隊の被害は、空戦で一二機、操作ミスで一二機を失ったが、これは決して小さなものではない。 十月六日、ウェーク島空襲の報を受けたマーシャル諸島ルオット島の二二航戦司令官吉良俊一少将は、マロエラップ島の七五五空の陸攻九機と二五二空の零戦一八機に対し、ウェーク島へ増援に向かうよう下令した。 この命令で、ウェーク島に向かった零戦、陸攻各七機は、ウェーク島の南約五カイリの地点で、F6F三機に遭遇し、陸攻隊三機を奇襲する同機と交戦して、二機を撃墜して残る一機を撃退した。その後、零戦隊は再びF6F二〇機に遭遇し、交戦して一機を撃墜した。しかし、この空戦で零戦二機が行方不明になり、一機が不時着して、結局四機がウェーク島に進出した。一方、陸攻隊は二機が行方不明、一機自爆、残り四機はウェーク島に進出できなくなり、ルオット島に帰着している。 周防飛行隊長は、F6Fと初めて空戦し、零戦ではもう対抗できないことを知った。 「ろ」号作戦とボーゲンビル島沖航空戦 正規空母「瑞鶴」「翔鶴」に小型空母「瑞鳳」を加えた一航戦は、第三艦隊司令長官小澤治三郎中将が直率し、「い」号作戦に参加して傷ついた後、再編成されて、十八年七月十五日、トラック環礁に進出し、鋭意訓練を続けて術力をある程度向上した。 連合艦隊司令長官古賀峯一大将が旗艦「武蔵」に座乗して、一航戦と他の決戦部隊を率いマーシャル方面に進出したが、敵情を得ずに、空しくトラック環礁に帰投したのは、十月二十六日である。 九月下旬から十月初めにわたり、ニューギニア方面の戦況が逼迫し、大本営陸軍部は一航戦の南東方面投入を提案してきた。海軍部は、一航戦は連合艦隊の決戦兵力であり、米艦隊の中部太平洋軸戦の進攻を邀撃し、これを殲滅するZ作戦のような国運を賭する場合以外は使えない、とこの申し出を拒絶した。 連合艦隊司令部もこれと同意見であったが、十月二十八日に至り、その態度を翻して、一航戦飛行機隊を十一月初旬から短期間、南東方面の作戦に投入することを決意して、「ろ」号作戦要領を発令した。 右の投入の決定は、連合艦隊司令部の発意によるものである。 「『ろ』号作戦の結果により一航戦飛行機隊は、本来の目標であった母艦作戦によることなく、ラバウルを中心とする基地作戦によって壊滅的な打撃を受ける結果となり、全日本海軍が期待していたZ作戦の遂行を、長期間にわたり実行不可能な状況に陥れた。連合艦隊司令部における飛行機隊投入の決定は、やや衝動的に行われた感が深く、決戦部隊のマーシャル進出が無為に終わった結果、その寂しさによる心の翳りがあったのであろう」(戦史叢書「南東方面海軍作戦〈3〉」) 一航戦飛行機隊一七三機(零戦八二、艦爆四五、艦攻四〇、艦偵六)は、十一月一日、トラックからラバウルに進出した(艦攻約半数は三日進出)。進出した基地は、零戦と艦偵がラバウル東飛行場、艦爆はラバウル西飛行場、艦攻はカビエン飛行場である。 南東方面第一基地航空部隊の航空兵力保有量は、「中澤ノート」(軍令部第一部長中澤佑少将〈のち中将〉の日誌)の十月二十七日の記事によれば、次のとおりである。(カッコ内は可動機数)。 零戦 一二八(七二) 夜戦(月光) 二(一) 九九艦爆 一七(一〇) 彗星艦爆 五(一) 九七艦攻 一五(一四) 一式陸攻 七五(三六) 偵察機 一(〇) 計 二四三(一三四) 一方、十八年三月、ワシントンにおける計画によると、ラバウルは攻略せず無力化することになっていた。ソロモン諸島方面の作戦担任のハルゼー中将の南太平洋部隊司令部は、マッカーサー将軍の司令部と協議し、九月二十二日、次のような計画を設定した。 「トレジャリ諸島(注:モノ島を主島とする)及びボーゲンビル島のエンプレス・オーガスタ湾北部を占領し、同湾付近に飛行場を建設する」 エンプレス・オーガスタ湾のタロキナ付近は、ムンダからラバウルに攻撃に向かう爆撃機に合同する戦闘機の基地として、適当な距離にあった。 連合軍の進攻作戦は、十一月一日払暁を期して、背後の防備の手薄なタロキナ湾に上陸することを決定した。 ハルゼー提督は、ニミッツ提督の指揮下にあったが、第五艦隊によるギルバート作戦との関連による制約から、ボーゲンビル島進攻作戦の兵力を辛うじて準備することができた。 作戦を全般支援する海軍兵力は、メリル少将の第三九任務群(巡洋艦四、駆逐艦八)だけでは不足であるため、第五艦隊からシャーマン少将の第三八任務群(空母「サラトガ」「プリンストン」基幹)を借りてきた。 十月中旬、ソロモン米航空部隊はブインを中心とするボーゲンビル島方面各基地の無力化作戦を、またマッカーサー将軍指揮下の陸軍第五航空群は、ラバウル方面の大規模空襲を開始した。 十月二十七日黎明時、連合軍がモノ島に上陸し、続いて同日夜、陽動作戦のためチョイセル島に上陸した。 これに対し、草鹿中将は、十月二十七日に航空作戦を開始した。 ラバウル所在戦闘機体の可動兵力を集めて、零戦四〇機、艦爆八機は、二○四空の福田澄夫中尉が指揮して、艦爆隊はモノ島周辺の艦船群に突入した。同島上空にはP−38、P−39、F4U計五〇機がいた。報告撃墜数は二機だけである。米側資料によれば、敵駆逐艦一隻が損傷を受けている。わが方の被害は、零戦一機、艦爆三機が未帰還、艦爆二機が被弾不時着大破した。 F4Uコルセアブイン基地の飛行機は敵襲による損耗を避けるため、二○一空は二十八日、ブカ島に移動し、ブイン方面の航空兵力はほとんど皆無となった。 連合軍は十一月一日朝、シャーマン隊が北東方から空母機でブカ島を攻撃し、メリル隊がショートランドを艦砲射撃し、ソロモン航空部隊が両基地を制圧しつつ、タロキナに上陸を開始した。 二○一空の大庭良夫中尉の率いる零戦四四機、艦爆九機は、○五四○、タロキナ沖の輸送船団に対し、敵邀撃機約二〇機の阻止網をくぐり、艦爆隊は爆撃を敢行した。 戦果は「撃沈:輸送船二、巡洋艦:一、炎上:巡洋艦または駆逐艦一、小舟艇多数、撃墜:P−38一」と報告した。米側資料によれば、小舟艇一隻が至近弾により七名の死傷者を出したほか、揚陸作業が二時間中断されているだけである。我が方の損害は大きく、零戦一二機、艦爆三機が未帰還となり、零戦二機が不時着した。零戦が撃墜したのはP−38一機だけであり、これは零戦の戦力低下を象徴したものである。 第二次攻撃隊は○九三○出撃した。指揮官は二五三空の高澤謙吉中尉で、零戦四二機、艦爆七機から成り、搭乗員の半数以上が再出撃している。 攻撃隊は一一四五、タロキナ南方で上陸用舟艇群を攻撃し、敵戦闘機約五〇機の反撃を受けた。 戦果は「大発約三十隻粉砕、F4U三機撃墜」と報ぜられたが、米側資料によれば、これも揚陸作業が二時間中断されただけである。 シャーマン空母隊は、翌二日もブカ基地を空襲した。わが方は、一日、二日ともボーゲンビル島北方に対する索敵を実施していない。敵空母撃滅の執念が薄くなったのか、それだけの態勢がなかったのか、それらを確かめる資料はない。 十一月一日にラバウルに進出した一航戦飛行機隊は、二日早朝から戦闘に加入することになった。 二日○四三五、敵艦隊に対する攻撃隊がラバウルを発進した。 兵力は一航戦の零戦六五機、艦爆一八機と、第一基地航空部隊の零戦二四機、計一〇七機、指揮官は瑞鶴飛行隊長納富健次郎大尉である。 攻撃隊は○六○○、セントジョージ岬の一三五度一五〇カイリ付近に、巡洋艦、駆逐艦各三隻、大型輸送船二隻を発見し、十数機の上空直衛機の邀撃を排除しつつ攻撃を敢行した。戦果は、駆逐艦一隻撃沈、巡洋艦一隻及び輸送船二隻に火災を起こさせ、F4U六機(うち不確実三)撃墜と報ぜられたが、艦爆六機が未帰還となった。米側資料によれば、メリル少将の旗艦「モントピリア」に二弾が命中している。 攻撃隊は○七四○に帰着し、再出撃を準備中のところ、一一四○からB25七五機、P−38、八〇機が来襲した。一航戦の零戦五八機と、第一期地航空部隊の五七機(二○一空二一、二○四空一七、二五三空一九)が、瑞鳳飛行隊長佐藤正夫大尉指揮の下に邀撃に上がった。航空部隊が撃墜した数は一二七機となっているが、米側資料によれば、六分の一の二一機である。わが方は自爆、未帰還一八機(うち母艦機八)の損害を出している。 十一月一日、タロキナに敵上陸の報を受けた連合艦隊司令部は、一航戦飛行機隊の戦果を生かすためには、水上部隊の活躍が望ましいと考え、トラックにある水上部隊の主力を南東方面に投入し、敵水上部隊を捕捉撃滅しようと決断した。第二及び第三艦隊の所属艦のうち、空母、戦艦及び護衛任務の少数の駆逐艦を除いて、優速艦を全力出撃させた。艦隊燃料不足にもかかわらず、航空戦の実状に対する認識を欠いた処置である。 第二艦隊司令長官栗田健男中将が遊撃部隊指揮官となり、第四戦隊(「愛宕」、「高雄「、「摩耶」、「鳥海」」、第二水雷戦隊(軽巡一隻、駆逐艦四隻)、第七戦隊(「鈴谷」、「最上」)、第八戦隊(「筑摩」)の十二隻を指揮して、十一月三日朝、トラックからラバウルに向かった。 連合軍はラバウルの無力化の手段としてタロキナに進攻し、米太平洋艦隊の主力第五艦隊は、ギルバート作戦を手始めに、中部太平洋方面に主攻撃を指向しようとしていた。連合艦隊司令部はその情報を掴んでいなかったのであろう。 南東方面の情勢について、草鹿中将のように正しい判断をしていた指揮官もいる。草鹿中将は、十一月一日夜「部隊の進出は、ボーゲンビル作戦、『ろ』号作戦を見極めた上で、巡洋艦二隻と第二水雷戦隊程度の兵力の進出を希望する」と打電している。草鹿中将は、戦後これについて、「ラバウルに対する空襲が激化し、水上部隊の進出などとんでもない。来るなとは言えないが、来ない方が良いと思って打電した」と回想している。 栗田部隊はラバウル入港翌五日、シャーマン隊(空母「サラトガ」、「プリンストン」基幹)のF6F五二、TBF二三、SB2C二二、計九七機の空襲を受けた。 SB2Cヘルダイバー邀撃には一航戦四七機、基地航空部隊二四機、計七一機の零戦が上がり、三号爆弾を装備した彗星五機も加わった。海上部隊と防空隊も対空砲火で応戦した。 米空母機が引き揚げたあと、B24二七機とP−38六七機が来襲したが、これによる被害はほとんどなかった。 わが方の戦果はF6F二八、P−38七、急降下爆撃機一二、B24五、計五二機(うち不確実二)撃墜の記録が残っている。しかし、「ニミッツの太平洋海戦史」は急降下爆撃機と雷撃機の一〇機を失っただけであると述べている。わが方は零戦三機と彗星一機が未帰還となった。 B24リベレイター敵艦隊との決戦を狙って進出した栗太部隊は、ラバウルで出撃準備中に、敵艦上機の空襲を受けて、惨憺たる状況を呈した。 旗艦「愛宕」は至近弾三発により艦橋等が破損し、艦長が戦死した。その他「高雄」、「摩耶」、「最上」、「筑摩」、軽巡二隻、駆逐艦二隻が損傷を受けている。 栗田部隊は被害を受けるために、ラバウルに進出したような結果となった。草鹿中将は栗田部隊をトラックに回航し、予定の逆上陸作戦を翌六日に延期することを決め、当初のラバウル部隊だけで実施することになった。栗田部隊の海上決戦の希望は実を結ばずに終わった。 これから以後も、海軍の作戦は、期待を裏切ることがますます多くなっていく。 米空母の激しい空襲の前、十一月五日早朝、ラバウル発進の「翔鶴」の二式艦偵は、ラバウルの一三七度二一〇カイリのソロモン海上に敵艦船群を発見、空母に酷似せるものを含むと報告し、消息を絶った。 さらに、触接隊としてラバウルを発進した艦攻四機のうち二機が、夕方近くになって、空母らしきものを含む敵巡洋艦部隊を発見している。 同日午後、ラバウルを発進していた艦攻一四機は、日没三八分後敵部隊を発見、無照明で雷撃した。 攻撃隊は指揮官機を含む四機が未帰還となったが、空母二隻撃沈の戦果を報告した。実際には、攻撃を受けたのはシャーマン隊と異なる別動のLCT(上陸用舟艇)など三隻であり、魚雷艇一隻が撃沈されただけである(米側資料)。 それにもかかわらず、翌六日大本営は、「轟沈 大型空母一隻、撃沈 中型空母一隻、大型巡洋艦二隻、巡洋艦若しくは大型駆逐艦二隻」という誇大戦果を発表した。本航空戦はブーゲンビル島沖航空戦と呼称された。 十一月八日朝、索敵機はタロキナ沖に敵輸送船団を発見、一航戦の艦爆二六、零戦四〇及び基地航空部隊の零戦三一、計九七機は、瑞鶴飛行隊長納富健次郎大尉指揮の下に、タロキナ沖に向かった。輸送船八隻、巡洋艦四隻、駆逐艦七隻を発見、艦爆隊は敵艦船群に突入した。 上空にはP−38、P−39、F4U計約六〇機(米側資料では二八機)が、高度八、〇〇〇から一〇、〇〇〇メートルにわたり重層配備していた。わが戦闘機隊は、直掩隊(一航戦)と遊撃隊(基地航空部隊)に分かれていた。 戦果は輸送船二隻、駆逐艦三隻を撃沈、巡洋艦一隻、輸送船二隻を撃破、戦闘機一二機(うち不確実二)を撃墜と報ぜられた。米側資料によれば、輸送船二隻が命中弾を受けて火災を生じたが、揚陸終了後、全艦船とも出港している。巡洋艦はいなかった。 わが方の被害は大きく、艦爆一〇機、零戦五機が未帰還となり、零戦、艦爆各二機が被弾大破し、指揮官納富大尉も戦死した。 同じ八日、モノ島西方約三〇カイリに戦艦三、駆逐艦四発見の索敵機報告により、索敵触接隊六機発進に続いて、一航戦艦攻九機と基地航空部隊陸攻一二機が敵軽巡部隊に薄暮雷撃を敢行した。この敵部隊は、メリル隊と交替した支援部隊デュポーズ隊(軽巡三、駆逐艦四)であり、わが方は軽巡を戦艦と見間違えている。 艦攻二機は夜間戦闘機の追撃を受けて未帰還となり、艦攻触接隊二機も帰らなかった。陸攻三機が未帰還、二機が自爆している。 戦果はまたも誇大に報告された。米側資料によれば、軽巡「バーミンガム」に魚雷二本と爆弾一発が命中したが、撃沈された艦はない。 同夜、基地航空部隊の陸攻四機と艦攻七機がそれぞれラバウルを発進した。陸攻隊は熾烈な防御砲火を冒し、雷撃を敢行したが、効果は確認できず、二機を失った。艦攻隊は目標を発見できずに引き返し、そのうち一機が未帰還となっている。 大本営は、十一月八日の戦果をまとめて、撃沈十二隻(うち戦艦三)、撃破八隻という誇大戦果を発表した。本航空戦は第二次ブーゲンビル島沖航空戦と呼称された。 ハルゼー提督は、空母二隻(シャーマン隊)しか持っていなかったので、ニミッツ提督に空母増強を強く要請した。その結果、新正規空母二隻、軽空母一隻からなるモントゴメリー隊が新たに加えられることになった。 そして五隻の空母で新たにラバウル大空襲を行った。 十一月十一日朝、シャーマン隊はラバウル東方二二五カイリ、モントゴメリー隊はラバウル南東約一六〇カイリの地点から発艦した。それにソロモン航空部隊の陸上機も加わっている。 十一日○四五五、わが索敵機はボーゲンビル島西岸ムッピナ岬の二二〇度三〇カイリに、敵空母部隊が西行しているのを発見した。これはモントゴメリー隊である。 ○六五八、ラバウルに空襲警報が発令され、二分後には零戦が続々と邀撃に向かった。一航戦三九、基地航空部隊六八(二○一空一九、二○四空二四、二五三空二五)計一〇七機である。指揮官は翔鶴飛行隊長瀬藤満寿三大尉、二○一空相曽幸夫少尉、二○四空森田平太郎中尉である。(二五三空は、十一月の行動調書が存在していないので、指揮官不詳) 敵機数は空母機と陸上機を合わせると約二五〇機で、零戦隊の二倍以上の兵力である。米側資料によれば、シャーマン隊は悪天候に妨げられ、モントゴメリー隊の一八五機だけが攻撃したとなっている。 零戦が手強い米戦闘機を相手に取り組んでいる時、敵の雷撃機と急降下爆撃機の攻撃によって、港内外のわが艦船に被害が出てきた。 わが方は、地上砲火によるものを含めて計約六〇機の撃墜を報じ、零戦一一機(うち一航戦三)を失った。 ○八三○、ラバウルの空襲警報解除を待って、米空母部隊(モントゴメリー隊)に対する攻撃隊が発進している。基地航空部隊の制空隊三二機は、天候不良のため、空中合同ができずに空しくラバウルに帰投し、航空戦に参加できなかった。 基地航空部隊からの参加は、彗星艦爆四機だけとなった。一航戦の艦爆二〇機、艦攻一四機、零戦三三機と合わせ七一機が瑞鳳飛行隊長佐藤大尉の指揮の下に進撃した。 攻撃隊は、セントジョージ岬の一五五度一一〇カイリに空母三隻から成る機動部隊を発見した。 モントゴメリー隊のレーダーは一一九カイリでわが攻撃隊を発見し、米戦闘機隊は空母の四〇カイリ前方でわが攻撃隊を邀撃した。米側資料によれば、モントゴメリー隊には、着艦訓練の経験のあるF4U二四機とF6F一二機がニュージョージア島から派遣され、直衛を増強している。F4Uは、F6Fにも劣らない優れた戦闘機であり、前方視界不良に対する改良が進められ、このときには空母に発着艦できるようになっていた。 米戦闘機群の執拗な攻撃から逃れて、空母に突入した艦爆隊、艦攻隊を待ち受けていたのは、熾烈な対空砲火であった。最も狙われた空母「バンカーヒル」の発射弾数は、五インチ砲五三二発、四〇ミリ機銃四、八七八発、二〇ミリ機銃二二、七九〇発である。 この時の対空砲弾には、近接自動信管(VT信管)が装着されている。VTとはVariable Time の略である。発射された砲弾が目標の一定距離以内に接近すると、弾頭内の電波信管が感応して自動的に砲弾を炸裂させる。もともとこの信管は、昭和十四年から英国で研究していたもので、その後この研究は、米国に譲渡されて完成し、昭和十八年春から大量生産に入った。わが方がVT信管を知ったのは、戦後になってからである。この頃になると、米国と日本の技術の格差は大きくなっていった。日本はレーダーとVT信管で戦に負けたという人も少なくない。 この戦闘で、わが攻撃隊は米艦には何等の損傷も与えていない。米側資料によれば、モントゴメリー隊は、ラバウル空襲と本戦闘で失ったのは一一機の飛行機だけである。 わが方の大被害は目を覆わせるものがあった。艦攻一四機は全機未帰還、艦爆二〇機のうち一七機が帰らず、総指揮官佐藤大尉機を含む零戦二機、彗星二機も未帰還となっている。 モントゴメリー隊はわが昼間攻撃の結果、ラバウルの再攻撃を取り止め、飛行機隊を収容して急速に戦場を去り、シャーマン隊とともにギルバート作戦に参加するため、北上急行して第五艦隊に復帰した。 「モリソン戦史」は、 「太平洋艦隊司令部は、その後の作戦で空母をがむしゃらに推進させたが、もしモントゴメリー隊の空母が、ここで甚大な損害を受けていれば、あれ程積極的にやるのをためらったであろう。わが方の戦闘機と対空砲火がこの日示した絶大な進歩は、敵に対しては警告であり、われわれには良い前兆であった」 と述べている。日本海軍が、この米空母群の無敵ぶりを知るのは、七ヶ月後のマリアナ沖海戦においてなのである。 大本営は、本航空戦を第三次ボーゲンビル島沖航空戦と呼称し、その戦果(巡洋艦一隻轟沈、戦艦一隻中破……)を発表した。 十一月二日から十一日までの「ろ」号作戦の戦闘で、わが航空部隊の人員と機材は逐次消耗を重ねていった。 十一日の第三次ボーゲンビル島沖航空戦が終わった時、一航戦飛行機隊の機数(カッコ内は進出機数)は、零戦三九(八二)、艦爆七(四五)、艦攻六(四〇)、計五二機(一六七)になってしまった。 連合艦隊が一航戦飛行機隊を一時期注入し、連合軍の北部ソロモン進攻作戦を阻止し、敵空母部隊の捕捉撃滅を企図した「ろ」号作戦は失敗に終わった。実際の戦果は空しく、逆に貴重な一航戦飛行機隊が壊滅的打撃を受けるという、惨憺たる結果になってしまった。 十二日午後、古賀長官は「ろ」号作戦終結を下令した。「ろ」号作戦は十日間で終了したのである。 連合艦隊は十一月八日に、北東方面部隊中の第二基地航空部隊(十二航艦基幹)の「千島方面配備兵力及び飛行艇以外の進攻可能な航空兵力の大部」の南東方面部隊編入を命じた。これに続いて、十一月十二日、内南洋配備(二二航戦)の五五二空の南東方面部隊編入をも令した。二八一空の一部の零戦一六、五三一空の天山艦攻一二、五五二空の九九艦爆二五、計五三機は、十一月十四日から十七日の間に、それぞれラバウル又はカビエンに進出し、二六航戦に編入された。天山艦攻は、十八年八月三十日に制式機として採用された最新鋭機である。 これらの増援兵力を加え、南東方面部隊の可動航空兵力は、零戦六六、艦爆三七、艦攻二二、陸攻三〇、夜戦二、水偵一五、陸偵一〜二、計約一七〇機となった。しかしソロモン及びニューギニア方面の連合軍航空兵力の約二割に過ぎない。 この小兵力で苦戦が続けられ、十二月三日には第六次ボーゲンビル島沖航空戦が行われている。 この一連のボーゲンビル島沖航空戦における報告戦果は、戦後米側資料と照合すると、著しく過大である。戦史叢書「海軍航空概史」は、薄暮の攻撃が多く、戦果の確認が難しかったこと、搭乗員に実戦の経験の少ない者が多かったこと、指揮官機の未帰還が多かったことがなどが原因であったと思われる、と要約して述べている。しかしながら、戦果を報告する側も、ともに誇大報告の気持ちがあったのではなかろうか。 |
4 中部太平洋における苦戦
| ギルバート諸島の失陥 今までに述べた一連のボーゲンビル島沖航空戦に遡る十八年九月、ニミッツ長官は、統合参謀本部からギルバート諸島攻略作戦(ガルバニック作戦と呼称)に関する指令を受けた。攻撃目標はマキン、タラワ、アパママの三島である。 ニミッツ提督は、ガルバニック作戦のために第五艦隊に上陸部隊の海兵師団と歩兵師団を加えて、ギルバート諸島遠征部隊を編成し、その指揮官にスプルーアンス中将を任命した。 高速空母部隊(第五○任務部隊)は四任務群から成り、正規空母六隻、軽空母五隻、戦艦六隻、重巡五隻、駆逐艦二一隻という強力なものである。この他の空母部隊として護衛空母五隻から成る一任務群が、タラワ、アパママ攻略の上空直衛に使用されることになった。 十月十三日、米軍はマキン島の写真を初めて撮影し、二十日にはタラワ島を撮影している。 連合艦隊司令部は、ボーゲンビル島沖航空戦の戦果を過信し、中部太平洋方面に対する米軍の進攻作戦は相当に遅延するだろうと誤判断している。 これより先、十八年七月に第三特別根拠地隊司令官に着任した柴崎恵次少将は、猛訓練を始めた。その結果、守備隊は著しく精強になり、自信に満ちていた。 米軍は、上陸作戦に先行して十一月十四日から、基地航空部隊の大型機による、ギルバート、マーシャル方面のわが基地に対する空襲を激化した。十九日には早朝から、米機動部隊の艦上機と基地航空部隊の大型機が大挙して来襲した。 ナウルの二五二空派遣隊の零戦六機は、十九日早朝レーダー探知により邀撃し、SBD二機の撃墜を報じたが、わが方も一機不時着した。昼、五機発進、F6F二機の撃墜破を報じている。 ルオットを発進した一三機の陸攻隊が、夕方タラワ付近の米軍の予想行動海面に到着した。一部の陸攻が米空母を発見、攻撃し、二機未帰還となった。連合艦隊長官は、米軍攻略必至と判断し、その夜、当面の邀撃作戦要領を下令した。 二十日早朝から再び艦上機群が、タラワ、マキン、アパママに来襲するとともに、マーシャル諸島のミレ、ヤルート、イミエジにも来襲した。 二十一日、米軍はマキン、タラワに上陸を始めた。 この朝、連合艦隊司令部には、まずギルバート方面を攻略し、次いでマーシャル方面を攻略するという米軍の企図が分かった。 被害を受けていないマロエラップ基地から、陸攻五機が、二十一日未明索敵に出たが、うち二機が未帰還となった。帰還した索敵機の米軍発見状況によれば、マキン、タラワ付近五ヵ所に敵艦隊がいることが判明した。 二十一日朝、一四機の陸攻攻撃隊がルオット基地を発進し、タラワの西近距離にいた米空母部隊に対し、戦闘機群の妨害を突破し、熾烈な防御砲火を冒して雷撃を敢行した。指揮官機と第二中隊長機が体当たり自爆した。わが方は七機を失っている。 本攻撃の戦果として、空母二隻、駆逐艦一隻の轟沈等が報ぜられた。しかし米軍で一連のギルバート諸島沖の戦いで損傷を受けたのは、軽空母「インディペンデンス」への魚雷一本命中だけである。大本営は、この航空戦を第一次ギルバート諸島沖航空戦と呼称する旨発表した。 連日の索敵、攻撃における陸攻の消耗は甚だしく、その約半数が被害を受け、二十二日の使用可能機数は、陸攻一一機(七五五空)、零戦三八機(二五二空)となってしまった。 二十二日、米艦上機はタラワ、マキンに来襲、マーシャル諸島のミレ、ナウルも艦上機と大型機が来襲した。 その日夜、ルオットを発進した陸攻四機が、二十三日早朝タラワの敵上陸地点を爆撃するとともに、味方に弾薬糧食等の物糧を投下している。 二十三日黎明、米軍は、タラワに対し艦砲射撃を実施するとともに、戦爆連合の艦上機と大型機B24がミレ、イミエジを空襲した。ミレに対する米機来襲の報に接した二五二空零戦二〇機は、マロエラップから駆けつけたが間に合わなかった。しかし第二波のB24の来襲に遭遇し、二機を撃墜し一機に黒煙を吐かして撃退したと報じている。 二十四日、マキンの戦闘状況偵察及び攻撃に向かった二五二空周防大尉指揮の零戦一九機(爆装)は、途中F6F約三〇機の阻止を受け、熾烈な空戦を展開した。F6F一〇機(うち不確実五)の撃墜を報じたが、わが方も分隊長二名を含む九機の未帰還機を出し、偵察攻撃をやめて引き揚げている。 この二十四日、第二基地航空部隊(本土北東方面)から七五二空陸攻一八機がルオットに進出した。この日、内南洋方面航空部隊指揮官(二二航戦吉良司令官)が報告した可動機数は、零戦二四機、陸攻二八機であった。第二基地航空部隊の二四航戦(七五二空、五三一空、二八一空)は二二航戦司令官の指揮下に入ることになり、その第一陣陸攻の一部が進出したのである。 連合艦隊長官は、二四航戦の戦闘機二八一空本隊がマーシャルに進出するまでの間の空白を埋めるため、一航戦戦闘機隊三〇機(指揮官翔鶴飛行隊長瀬藤大尉)を派遣し、吉良中将の指揮下に入るように下令していたが、同隊は二十五日、ルオットに進出してきた。 二十五日午前、B24二〇機がマロエラップに来襲、二五二空零戦八機が邀撃した。艦上機がミレに来襲した。 この日の未明、伊号第一七五潜水艦は、マキンの西北西約二〇カイリの地点で護衛空母「リスカムベイ」を雷撃撃沈した。 この日の朝、二五二空の爆装零戦二四機(指揮官周防大尉)は、陸攻一機の誘導によりマキン上陸の米軍部隊の攻撃に向かったが、F6F五二機の阻止を受け、壮絶な空中戦となった。零戦隊は前日と同様、爆弾を棄て、敢然とF6Fに立ち向かったが、圧倒的多数のF6Fに苦戦を強いられた。F6F一一機(うち不確実四)を撃墜したと報じたが、わが方も零戦七機と陸攻一機を失った。上陸部隊攻撃は断念せざるを得なかった。 新鋭機F6Fに習熟しはじめた米空母戦闘機隊は、数の上からも常に優勢であったし、零戦一機に対して少なくとも二機で対抗する編隊空戦サッチ戦法を自由に駆使し、執拗に零戦に挑戦してきた。零戦が後方に回り込んでも、防弾装置がF6Fパイロットの生命を救った。空戦の名手周防大尉の切歯扼腕する姿が想像できる。 陸攻隊は連日のように索敵し、雷撃を敢行し、その都度、大きな犠牲を出しながら、大戦果を報告している。十一月二十六日には、七五二空陸攻一三機が(第二次ギルバート諸島沖航空戦)、二十七日には、陸攻一五機が(第三次ギルバート諸島沖航空戦)、二十九日には、陸攻八機が出撃した(第四次ギルバート諸島沖航空戦)。この三回の攻撃で陸攻八機、またこの間の索敵触接で陸攻五機が未帰還となっている。 各回次ギルバート諸島沖航空戦は現地部隊の戦果報告を総合すると、空母だけでも八隻を撃沈したことになる。ところが、戦後米側資料によれば、米空母は一隻も撃沈されてはいない。わが上級司令部、大本営は、この戦果報告に何の疑いも持たず、情勢判断の資料とし、或いは公表して、戦後まで信じていた。 なお、十一月二十七日夜(第三次ギルバート諸島沖航空戦)において、米海軍はレーダーを装備した夜間戦闘機F6F−3Nを初めて実戦に使用し、わが陸攻機を撃墜している。 遂にマキンは十一月二十四日、タラワは二十五日、アパママは二十六日に玉砕した。連合軍にマーシャル諸島攻略の足場を与えてしまった。 柴崎少将のタラワ守備隊約四、六〇〇名は、海空からの猛攻撃にも屈せず、連日奮戦敢闘した。そして、タラワ攻略作戦に参加した米海兵隊と海軍の一八、三〇〇名のうち、戦死一、〇〇九名、戦傷二、一〇一名の損害を与え、海兵隊に太平洋における最大の苦戦を強いている。 短期間のギルバート作戦における人名の犠牲に、米国は大きな衝撃を受けて、上陸前の航空攻撃と艦砲射撃を徹底すべきであるという戦訓が、この後の太平洋方面の作戦に活かされることになった。 一方、十一月二十日頃から二二航戦の二五二空と七五五空の消耗が激しくなり、候補卯吉での再建及び訓練の必要に迫られていた。北方からの二四航戦及び南西方面からの七五三空のマーシャル方面への進出のめどがついたので、十二月三日、二二航戦司令官は七五五空だけを率い、テニアンに後退することになった。交替する二四航戦司令官は残留部隊も併せて指揮することになった。 米軍のマーシャル諸島進攻準備 ニミッツ提督が最終的に決定したマーシャル諸島攻略作戦計画は、日本軍の司令部があるマーシャル諸島の心臓部クェゼリン環礁に直接進攻するというものである。 十二月五日、米機動部隊(TF五〇)は、わが索敵哨戒圏を避けて、ルオットの北東方面から攻撃を開始した。全空母六隻の搭載機は、F6F一九三、SBD一〇四、TBF八九、計三八六機である。 米戦爆連合第一次空襲は、早朝、ルオット基地に約八〇機、クェゼリンに約五〇機で行われ、第二次空襲は、五時間後、ウオッゼ基地に約三〇機で行われた。 ルオットのレーダーは四〇度八〇キロに米機大編隊を捕捉したが、通信連絡不良のため邀撃が遅れた。一航戦派遣戦闘機隊二六機、二八一空二七機の零戦が邀撃した。米攻撃隊は奇襲には成功したものの、地上の迷彩にとまどって、米軍が期待した程の戦果を揚げ得なかった。それでも、飛行場の零戦一二機焼失、大破三機、被弾一〇機、運油船六隻が沈没、軽巡二隻をはじめとし船舶数隻が損傷している。またクェゼリン環礁の一角にあるエビジ基地の水偵一七機も炎上した。 零戦とF6Fの熾烈な空戦は四五分も続いた。零戦はルオット方面で九機(うち不確実二)を、クェゼリン方面では一四機を撃墜したと報じたが、零戦一六機が未帰還となった。米側資料によれば、飛行機五五機を撃墜破し、失ったのは五機であると記されている。 慎重なボーンオール少将は第三次攻撃を取り止め、飛行機の収容が終わると、戦場を離脱した。夜間雷撃を警戒したからである。 わが索敵機は米艦上機が帰投している頃、機動部隊を発見した。それに対して攻撃に向かった天山六機は、ボーンオール隊の対空砲火の猛射を浴びて、全機撃墜されてしまった。 この機動部隊は日本機の行動圏外に出るのが翌六日の晩になるので、五日の夜間攻撃を警戒していたところ、案の定、マロエラップ発の陸攻九機、次いでルオット発の陸攻八機が来襲した。「レキシントン」の艦尾に魚雷が命中、死傷者四四名を出し、舵取機械を損傷している。 この米空母に対する攻撃は、マーシャル諸島沖航空戦と呼称された。 一航戦派遣戦闘機隊は、十二月五日付原隊復帰を下令されていたが、米艦上機のルオット来襲時の邀撃で六機の未帰還機を出し、七日トラックに復帰している。 マーシャル諸島の失陥 米軍のマーシャル諸島攻略作戦計画は、タラワ攻略作戦の戦訓を採り入れ、兵力も万全を期したものである。第五水陸両用部隊は、約三百隻の艦艇と船舶に、陸軍と海兵隊から成る五三、〇〇〇名の攻撃部隊と、三一、〇〇〇名の守備部隊を載せていた。 十九年一月三十日早朝、四コ任務群から成るミッチャー少将の第五八高速機動部隊の艦上機は、マーシャル諸島のクェゼリン(三回以上延二〇〇機)、ルオット(延一二〇機)、マロエラップ(六回延九〇機)、ウォッゼ(七回延二二〇機)の四島に来襲した。これに呼応して、ギルバート諸島からもミレ(P−39三回延一二機)を攻撃した。そして午後になると、ウォッゼとマロエラップに巡洋艦、駆逐艦が艦砲射撃を加えている。 これに対して、マロエラップ基地の二五二空とルオット基地の二八一空の零戦隊は寡勢よく邀撃敢闘したが、空戦と砲撃により、午前中には両基地とも使用可能機はなくなった模様である。 二月一日、米軍はクェゼリン、ルオットに上陸作戦を開始し、五日までに攻略した。ルオットの二八一空本部は玉砕し、司令・所(ところ)茂八郎大佐、飛行長・蓮尾隆市大尉、分隊長・望月勇中尉が戦死している。マロエラップ、ウォッゼ、ミレ、ヤルート等、離島守備の五、八〇〇余名に対する補給はいよいよ困難となった。飛行機、潜水艦によって救出された搭乗員は五八名に過ぎず、またミレ及びナウルから約一〇〇名の整備員が収容された。 クェゼリン環礁における戦死者数は、日本軍七、三四〇名に対し、米軍は桁違いに少ない三七二名である。 なお、米軍は、二月一日にマーシャル諸島南部のメジュロ環礁も占領し、水陸両用基地として米海軍の前進根拠地となった。 米機動部隊のトラック空襲 古賀長官は、十九年二月十日、連合艦隊の水上部隊をトラックから引揚げさせた。主隊は内地へ、遊撃部隊はパラオへ向けさせた。敵の哨戒機の偵察が行われたので、トラックが空襲される公算が大きいと判断されたからである。 トラックには竹島、春島、楓島、夏島の四つの航空基地があり、二月十七日現在の航空部隊は次のように配置されていた。 竹島 二六航戦司令部、二○四空 零戦三一機、五○一空 零戦二五機、 二○一空派遣隊 零戦八機 春島 七五三空(二三航戦) 陸攻一〇機、五五二空(二二航戦) 艦爆一五機 五八二空(二五航戦) 艦攻七機・天山二機、四根 水偵八機 楓島 五五一空(二八航戦) 天山二六機、二五一空(二六航戦) 夜戦九機 九三八空(二六航戦) 零戦五機 夏島 六艦隊 水偵七機、四根 水偵一一機 総機数一六四機で、零戦六九機、夜戦九機である。 (注)二六航戦(司令部、二○四空及び五○一空の一部)は、ラバウルの苛酷な戦いで、 搭乗員の消耗と疲労が激しく、十九年一月下旬トラックに後退し、戦力回復と再錬成を行っていたものである。 十五日正午頃、通信隊が米空母の無電を傍受し、米機動部隊がトラックに近接している兆しがあると認められた。トラックに残っていた内南洋方面部隊指揮官(第四艦隊長官)は、米機動部隊が十六日早朝トラックに来襲する公算が極めて大きいと判断して、十六日○三三○、第一警戒配備を下令し、索敵機を一一機出した。いずれも異常を認めなかったので、一○三○には平常配備に戻した。そのまま十七日の朝を迎えた。 米海軍のトラック急襲部隊は、ミッチャー少将が指揮する三コ任務群から成る高速空母部隊で、空母九隻を基幹としていた。総指揮官スプルーアンス提督は、四五、〇〇〇トンの新鋭高速戦艦「アイオワ」と「ニュージャージー」、重巡二隻、駆逐艦四隻を率い、周辺のリーフの間の水道から外海に脱出を試みる艦船を捕捉撃滅するため、トラック近海に接近した。 十七日○四二五頃、トラックのレーダーは大編隊を捕捉し、空襲警報と第一警戒配備が発令された。 竹島基地の零戦隊二○四空二七機・二○一空八機、五○一空二五機、夏島基地の水上機隊一二機、春島基地の零観隊五機、計七七機が発進した。F6Fの上空突入の方が早く(○五○○頃)、発進中にF6Fの攻撃を受けたものも相当あって、約四〇機が邀撃にあたった。日の出は○五○九、わが方は寝込みを襲われたことになる。 最初の敵攻撃隊はF6F七二機だけで構成されていた。戦闘機の殴り込みで、わが航空兵力を叩き潰して、その後、思いのまま爆撃・雷撃を加える、戦場上空の制空権獲得を先決とする理に合う用法である。 発進が遅れた零戦隊は、機数の多い新鋭機F6Fに上から襲われて最初から不利であった。敵艦上機は早朝から夕暮れまで、九波延一、二五〇機来襲し、その都度発進する零戦の機数は少なくなり、零戦隊は苦しい戦闘を続けなければならなかった。この日、二八名が戦死している。 その間、天山一〇機、艦爆九機が索敵に向かったが、帰還したのは艦爆四機だけである。 米機の集中攻撃を受けた竹島基地の二六航戦司令部は、戦闘機の邀撃作戦指揮と同島の地上被害処置で手一杯となり、トラック所在の航空兵力を統一指揮して米機動部隊に対処する余裕はなかった。 テニアンから陸攻五機が攻撃に向かい、そのうち一機が空母を雷撃し、一機が未帰還となった。この時雷撃を敢行した一機は空母「イントレピット」に大損害を与えている。本作戦で、日本海軍が米空母部隊に対して行った唯一の反撃であった。 十八日未明、米機動部隊は、夜間爆撃用のレーダーを装備した雷撃機TBF一二機で、トラック在泊艦船を爆撃させている。 十八日黎明とともに、米機動部隊は四隻の空母から一斉に攻撃隊を発進させた。わが方は、使用可能な邀撃戦闘機はなく、地上砲火だけで対抗したため、米機の思うままの銃爆撃を甘受しなければならなかった。 二月十七日、十八日の両日にわたるトラック急襲によるわが軍の被害は甚大であった。 わが軍は、七〇機が空戦により撃墜され、航空廠倉庫に在った飛行機を含めた約二〇〇機が、地上で銃爆撃により破壊、若しくは炎上した。 撃沈された艦艇は軽巡「香取」、「那珂」を含む一〇隻、それに三一隻の輸送船も撃沈された。(空襲により損傷を受け、洋上に避難しようとしていた「香取」、駆逐艦一、輸送船一、駆潜艇一は、スプルーアンス直率の戦艦、巡洋艦部隊によって撃沈された)。損傷艦艇は九隻を数えた。航空廠建物の一部、軍需倉庫、燃料タンク三個等地上施設を炎上し、死傷者六〇〇名(沈没艦船乗組員を含まず)を出している。 これに比べ、米側は、空母「イントレピット」の損傷と、艦上機二五機を失っただけである。 米軍は、トラックの航空戦力を粉砕することによって、ブラウン環礁(エニウェトク)の孤立化(二月二十二日占領)とラバウルの無力化を達成することができた。 サイパンの二○一空零戦二四機(指揮官河合四郎大尉)がトラックに進出したのは、空襲が終わった直後である。 南東方面終期の戦闘機隊の活躍と航空兵力の引き揚げ 暫く時を遡り、南東方面の戦況を辿ってみる。 十八年十二月、この方面に配備されていた零戦の戦闘機航空隊は、二五航戦の二五三空と二六航戦の二○一空、二○四空である。 十二月十五日、連合軍はニューブリテン島西部海岸のマーカス岬に上陸を開始した。 この敵に対し、月末まで九回にわたり、延六二二機の戦爆連合の攻撃を行った。戦闘機の一部は爆装であった。 十八日にトラックから瑞鶴飛行隊が増援し、艦爆はこの攻撃に加わり、艦攻は陸攻とともに夜間攻撃を実施した。瑞鶴戦闘機隊一八機(飛行隊長中川健二大尉)は二五三空ぼ指揮下に入り、十九日から戦闘に参加している。 一方、ボーゲンビル島からの空襲が激しくなった。 十二月中の在ラバウル戦闘機隊の出撃記録は、次ページのとおりである。(敵機数は報告された視認又は交戦した数、戦果は確実として報告されたもの、出撃数は上から二○一空、二○四空、二五三空、邀撃※欄は別時刻に警報により緊急発進したが会敵しない出撃数、個人名は指揮官を表わす)。 |
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日
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基地、船団上空直衛延機数 |
攻 撃
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邀 撃
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出撃数
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敵機数
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戦果
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出撃数
|
敵機数
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戦果
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※
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1
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30
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2
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16
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3
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32
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4
|
52
|
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|
|
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5
|
27
|
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|
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6
|
32
|
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|
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8
|
|
7
|
4
|
|
|
|
|
|
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|
8
|
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9
|
6
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10
|
8
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|
|
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11
|
4
|
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12
|
35
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13
|
29
|
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14
|
28
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15
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62
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マーカス 大庭中尉
14・41・0 |
P38・10機
|
0
|
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|
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|
16
|
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マーカス一次大庭中尉
11・28・16 マーカス二次大庭中尉 16・37・0 |
P38・21機
23 |
2
8 |
|
|
|
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17
|
60
|
|
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15・32・25
|
40
|
9
|
|
|
18
|
59
|
|
|
|
|
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|
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|
19
|
61
|
タロキナ 松尾少尉
4 |
|
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15・39・40
|
70
|
8
|
39
|
|
20
|
39
|
|
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二回119
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21
|
41
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マーカス一次中川大尉
15・16・32 マーカス二次中川大尉 2・30・32 |
10
十数機 |
0
4 |
|
|
|
|
|
22
|
42
|
|
|
|
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|
63
|
|
23
|
87
|
|
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30・38・31
|
90
|
16
|
|
|
24
|
30
|
|
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27・29・41
24・26・34 |
100
75 |
51
3 |
|
|
25
|
46
|
|
|
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22・30・37
|
70
|
19
|
56
|
|
26
|
29
|
マーカス 中川大尉
14・18・24 ツルブ 中川大尉 13・19・23 |
0
100 |
15 |
|
|
|
|
|
27
|
31
|
ツルブ 中川大尉
22・25・32 |
30
|
13
|
18・33・34
|
17
|
|
|
|
28
|
13
|
|
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22・23・30
|
50
|
21
|
17
|
|
29
|
27
|
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|
30
|
28
|
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23・31・31
|
40
|
6
|
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31
|
39
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マーカス 片山少尉
8・16・0 |
30
|
1
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| このように、この一ヶ月間に、延二、六〇〇機が飛び上がっている。 十二月以降のラバウル防空戦闘 敵がタロキナに飛行場を新設し、使用を開始した十二月二十七日以降は、ラバウルに対する空襲は一変した。敵は戦爆連合の大編隊で昼間強襲をかけて来るようになった。ラバウルの基地航空部隊は、従来ボーゲンビル島方面及び東部ニューギニア方面への航空攻撃並びにラバウルに補給を続ける船団の護衛等に専念していたが、月の後半になると、ラバウル上空の邀撃戦が大きな負担となってきた。そして敵のマーカス岬及びツルブへの来攻により、ラバウル海軍航空部隊は連日の攻撃と邀撃のために寧日なかった。 各回の邀撃戦において、ニューブリテン島各地に配備されたレーダーは、よく敵編隊を捕捉し邀撃に余裕を与えた。十二月中に基地航空部隊が喪失した零戦の累計は、攻撃で二四機、邀撃で三四機計五八機(うち五七機は十五日以降)に達し、ほかに一三機が不時着大破している。この短期間における大量の被害は、南方方面航空部隊の戦力を著しく低下させ、搭乗員の疲労は極限に達した。 なお、十二月三十一日現在の基地航空部隊の零戦可動機数は八五機、搭乗員八二名であった。十二月二十七日二航戦の零戦三六機が戊号輸送(内地から北部ニューアイルランド島及びアドミラルティ諸島方面への陸兵増援のための輸送)の警戒のためカビエンに進出したので、これを加えれば所在機は一二一機である。これに対し、連合軍側の戦闘機は、ソロモン方面約三五〇機、ニューギニア方面約五〇〇機と推定されていた。 ラバウルでは十九年元旦を迎えた。 レーダーとVT信管の使用により日本機撃墜率を向上した米機動部隊は、日本に比し圧倒的な工業力によって絶対優勢な航空機数を持ち、戦闘毎に勝利を得て自信を深めて来た。 ラバウルに対する空襲も元旦から続き、その規模も日一日と大きくなっている。戦力を消耗し尽した二〇一空は一月四日にサイパンに引揚げ、二航戦零戦隊も兵力の一部を残して一月五日以降逐次トラックに復帰した。その後のラバウル可動航空兵力は、零戦八〇、艦爆一五、艦攻一一、陸攻二〇、夜戦四、陸偵四、水偵二〇計一五四機であり、二〇四空及び二五三空(瑞鶴零戦隊を含む)の零戦隊約八〇機は、連日一直配備で邀撃戦を繰返すこととなった。 一月中の大邀撃戦だけを揚げても次のとおりである。(注1まで戦史叢書「南方方面海軍作戦〈3〉」から引用) 日 来襲機概数 邀撃機数 撃墜機数(不確実) わが自爆及未帰還機 記事 一 七〇 五七 九(一) 二 四〇 八一 一〇(三) 三 三 三〇 七〇 一一(四) 二 四 五〇 五六 一八(一) 三 六 四〇 六二 八(六) 二 七 一八〇 七四 三一(七) 二 九 一五〇 七二 五二(一九) 二 三号爆弾有効 一二 七〇 七二 四(二) 一 天候不良 一四 一六〇 八四 六五(一九) 三 一七 二〇〇 七九 八七(一七) 〇 一八 一一〇 八四 五 四 天候不良半数攻撃 二〇 一八〇 八二 三八(四) 一 二二 一三〇 五七 四九(一〇) 二 二三 二〇〇 六七 五二(一八) 五 〃 五〇 五七 五(二) 八 二四 一二〇 三六 一七(五) 〇 二六 二〇〇 九二 四八(一五) 六 二七 八〇 六五 三三(一〇) 六 三号爆弾有効 二八 一八〇 六四 八六(六) 八 二九 二六〇 六八 二五(八) 五 三〇 一九〇 五三 一三(一) 一 〃 一〇〇 四二 三三(七) 五 三一 一八〇 五一 二五(六) 二 (注1)米軍側資料による一月中のラバウル攻撃機種、機数(喪失機)は次のとおりである。 B24 二六三(八) B25 一八〇(一四) SBD 三六八(八) TBF 二二七(五) 戦闘機 一、八五〇(六五) (注2)二五三空の記録によれば、同隊は一月中来襲機数二、八八八機(米側資料)に対し、三六回緊急発進し、うち二六回延八五二機で交戦している。この間の戦果二五八機、被害二八機である。 連合軍の大・中型機の防御性能は高く、わが搭乗員の技量低下と相まって、その撃墜は次第に難しくなった。夜間戦闘機はラバウルに二、三機、カビエンに一、二機配備されていたが、この頃にはその劣性能のために、敵機の捕捉攻撃はほとんど成功していない。 邀撃戦にはしばしば三号爆弾が使用された。この爆弾による敵機撃墜の効果は少なかったようであるが、敵機の爆撃運動を攪乱し、わが地上の損害を少なくさせた。 一月十七日、ラバウルは約二〇〇機の空襲を受け、事態が深刻になった。連合艦隊司令部は二航戦をラバウルに進出させ、搭乗員の消耗と疲労の激しい二六攻戦(司令部、二〇四空及び五〇一空の一部)をトラックに後退させ、戦力回復と再練成をはかることとなった。 城島高次二航戦司令官は、一月二十五日、零戦六二機、艦爆一八機、艦攻一八機を率いてラバウルに進出した。二六航戦は一月二十六日から二十八日にかけてトラックに後退した。 こうして、一月二十六日には、零戦九二機という最大規模の邀撃戦を実施している。 二航戦零戦隊は、ラバウルに進出した翌二十六日から激しい邀撃戦に突入し、月末までの六日間の戦闘で、その可動機数は半減した。 二月に入っても、ソロモン方面陸上基地からのラバウル空襲は連日連夜続き、わが零戦隊は邀撃毎に被害を出した(二月十九日まで二八機)。二月には零戦五三機が補充されたが、邀撃機数は漸滅して五〇機前後となり、二月十九日には三六機が上がっただけである。 零戦は渾身の力を振り絞って戦った。 二月十七日、十八日トラックが米機動部隊の大空襲を受け、航空兵力壊滅の報を受けた連合艦隊は、南東方面の航空兵力をラバウルから引揚げるよう下令した。 飛行機隊は一部を残して月末までにトラックに移動した。 残留した二五三空の一部の零戦隊は、三月二十六日まで一一回出撃している。二月二十八日と三月一日には、それぞれ一六機出撃し、三月二十四日にはタロキナへ行動している。搭乗員数は一六名を上回ると思われる。二五三空残留隊がトラックに引揚げた時期に関する記録は見当らない。 二五三空残留隊が引揚げた後、ラバウルには被弾した飛行機が十数機残っていた。 草鹿南東方面部隊指揮官は、航空部隊のラバウル引揚げについて強く反対し、残存機の中に無傷の零戦六機を含めてあった。 二月十九日の連合軍のアドミラルティ諸島への上陸によって、ラバウルは完全に孤立することになった。 このようにして、ラバウルに栄光と苦闘の歴史を残した零戦隊は去っていった。国民の多くは、このことを知らなかった。 残存零戦は修理されて、少数機で偵察や爆撃にしばしば涙ぐましい活躍をしたが、ここでは割愛。特に、捷号作戦時の偵察行動に対して、十九年十月六日連合艦隊司令長官は、「全般作戦に寄与するは大に可なり」と賞し、十一月十日には大本営は、「孤立無援の境遇に屈せず・・・・・・偉功を奏したるを慶祝す」と祝電を寄せ、その功を讃えた。 日米航空戦の勝敗の分れ目となったソロモン戦場の海軍戦闘機隊の集中状況を纏めると次のとおりになる(真木成一論文)。 |