豫科練について


海軍における官等・階級制度について
海軍における特准・下士官兵の軍装

 豫科練とは、豫科練習生、つまり「海軍少年航空兵」のことである。

 少年航空兵の制度は、昭和3年に、搭乗員の増強を企図するために起案された。従来、搭乗員は将校を主に、正規士官1に対し特務士官2の割合で養成していたが、これでは尉官から佐官の進級時に著しい人員過剰を来してしまうし、また、下士官兵からの養成(操縦練習生及び偵察練習生)では基礎教育に長期間を要するので勤務年限が著しく制限されてしまう。そこで、高等小学校卒業程度の15歳から17歳までの「少年有為者ヲ吸収」し「尉官代用ノ為」「航空兵」を創設して、昭和5年から「横須賀海軍航空隊豫科練習部」において「豫科練習生」の教育を行うこととした。

 第1期豫科練習生が採用されたのは、昭和5年6月1日のことである。入隊者、つまり最終合格者数は79名。採用予定者100名(1名欠席の為実数99名)が6月1日に横須賀空に集められ、3日間の適性検査で79名にまで絞られたのである。鎮守府別の志願者は、横須賀鎮守府管下2632名、呉鎮守府管下1580名、佐世保鎮守府管下1595名、合計5807名、実に74倍の倍率を誇った。

 豫科練習生は、航空兵であったが、豫科練習生のうちから航空機の訓練を受けていたのではない。豫科練習生は、あくまでも「豫科」であった。豫科練習生として採用された限りは、将来准士官を経て、航空特務士官となり、分隊士、分隊長として航空隊の第一線で指揮を執ることになる。
 四等航空兵からスタートする約3年間の豫科練習生を卒業し、一等航空兵に進級して操縦術と偵察術にわかれて「飛行練習生」として練習機で約半年間の訓練を受け(言うなれば「本科」)、更に実用機教程に進んで約3ヶ月から半年にわたる「延長教育」を受けて実施部隊に配属になるのである。
 実施部隊に配属され、軍歴3年11ヶ月となり、晴れて下士官に任官する。三等航空兵曹、二等航空兵曹をそれぞれ1年、一等航空兵曹を1年11ヶ月勤め上げ、軍歴7年10ヶ月で准士官、航空兵曹長に任官し、晴れて士官の軍装を着装することが出来た。もちろんそれは「特准」を示す識別線のついた階級章(第二種軍装では金線の幅が半分)に、袖に桜の徽章がついたものであったが。
 兵曹長になり、分隊士となれば分隊長を補佐し、実質的に分隊を取り仕切ることとなる。兵曹長を2年、特務少尉を2年、特務中尉を2年経験すれば、特務大尉となる。中尉あるいは大尉となれば分隊長として分隊を指揮することも出来る。
 もっとも、この悪しき「特務」も昭和17年11月の改正で呼称上は消え、軍令承行令の改正によって制度自体も消えた。
 豫科練の制度が出来た頃は、このように下士官として4年、特准8年以上経験させ、第一線航空機搭乗員及び第一線指揮官として20年は活躍させる腹づもりであった。

 昭和11年6月、それまで3学年制3年間であった豫科練は、2学年2年4ヶ月に教育期間を短縮された。この措置によって第5期生、第6期生も移行措置として期間短縮され、第7期生からは改正された修業期間で教育されることとなった。
 昭和11年11月には、豫科練習生の呼称が、「飛行豫科練習生」に変更された。

 昭和12年5月、海軍志願兵令施行規則改正によって、「甲種飛行豫科練習生」が誕生する。そのことにより、従来の「飛行豫科練習生」は、「乙種飛行豫科練習生」と呼称されることとなった。
 甲飛は、16歳以上20歳未満の、(旧制)中学4年1学期終了程度の学力を持つ者を採用し、採用時期を年2回、4月1日と10月1日とした。ただし、第1期生は昭和12年9月1日付採用であり、12期(昭和18年)以降は、分割して大量採用されることとなる。
 第1期甲飛豫科練習生は、昭和12年9月1日、250名が採用された。
 甲飛の採用は「航空特務士官」の速成教育にある。昭和12年といえば、北支において支那事変が勃発、これ以降日本と中華民国(重慶政府)は全面戦争に突入する。この時、渡洋爆撃に豫科練習生出身搭乗員が初陣を飾った。とすると、つまり、今まで養成してきた航空機搭乗員の損耗率も跳ね上がるのである。兵学校出身の兵科将校も、豫科練出身の下士官兵搭乗員(この頃1期生はまだ下士官であった)も、操練・偵練出身の特准下士官兵の搭乗員も、戦死・戦傷するのである。とりわけ士官搭乗員の消耗が危惧された。
 そうなると、豫科練の増員である。しかし、従来の豫科練習生が特准になるのを待つのでは時間がかかりすぎるのである。では、特務士官にふさわしい基礎教養を持った者を速成教育して士官搭乗員にすれば問題は解決すると考えられた。そのための甲飛創設である。
 従来の乙飛は、1次試験は他の一般志願兵と同じであった。この頃の航空兵の志願兵は、乙飛、偵察練習生、航空整備兵の3種であり、一般に「航空兵」として海兵団に入団すると、整備兵となっていた。偵察練習生もまた、最初は海兵団で一般志願兵として教育を受けていた。
 が、甲飛は、1次試験の内容から全く異なっていた。募集のポスターですら、乙飛が一般志願兵とひとくくりであったのに対し、甲飛は専用の募集ポスターがあった。いや、この時代、中学に進学するということ自体が、至難の業であった。その中学4年といえば、海軍兵学校ないし陸軍予科士官学校へ志願できるのと同じ資格である。
 しかし、だからこそ、誰が、ジョンベラを着せられ、カラスの四等航空兵になると思っただろうか。あるいは陸軍における航空士官学校(陸軍の士官学校は、共通の予科をおえ、本科たる士官学校及び航空士官学校に進んでいた)のようなものと誤解しただろう。ましてや、海軍の士官には、兵学校を出た正規士官と指揮権のない特務士官があり、自分たちが一段も二段も格下の「特務士官」にしかなれないことは予想もしなかったかも知れない。
 ここに「甲飛のプライド」が生まれる素地があり、「甲乙の蹉跌」の生まれる素地があったのである。

 さて、豫科練習生の修業年限は、海軍練習航空隊規則により、
  甲飛 1年2ヶ月
  乙飛 2年4ヶ月
となった。
 甲飛は、四等航空兵として入隊し、1ヶ月経過で三等航空兵、1ヶ月半経過で二等航空兵、2ヶ月経過で一等航空兵に進級し、豫科練教程の間のほとんどを兵の最上級である一等航空兵として過ごした。
 乙飛は、同じく四等航空兵として入隊し、3ヶ月経過で三等航空兵となり、1年2ヶ月経過した第1学年修業時に二等航空兵に進級し、豫科練教程を卒業する時になって、つまり入隊以来2年4ヶ月でやっと一等航空兵になるのである。

 昭和5年以来横須賀海軍航空隊、つまり追浜の地で教育を受けてきた豫科練習生たちも、甲飛の創設によっていよいよ手狭となり、何かと不便となってきた。
 そこで、豫科練習部は、横須賀空から霞ヶ浦航空隊に移されることになった。昭和14年3月1日、霞ヶ浦空豫科練習部(霞空の本隊は、水上機の練習航空隊)が開設され、翌15年11月15日をもって、「土浦海軍航空隊」として独立した。

 土浦空の独立の1ヶ月半前、従来からの「操縦練習生」及び「偵察練習生」が廃止され、新たに海軍部内からの航空兵志願者を養成する為の「丙種飛行豫科練習生」制度が創設された。この措置によって、操練第57期生として採用された33名は、昭和15年10月1日、丙種第1期生として霞ヶ浦空に入隊した。丙種の教育期間は、6ヶ月であったが、第1期生入隊後の10月15日に発出された特令によって、3ヶ月に短縮された。
 丙種として採用された豫科練習生は、もとより海軍兵である。つまりは海兵団での基礎教育も受けており、実施部隊ないし艦船で勤務していたのであって、海軍についての基礎教育は必要なかった。
 しかしながら、既述のように甲飛も乙飛も「将来の航空特務士官」を養成するという目的があったが、この頃になるとそのような遠大な目的よりは「航空兵の急速養成」に主眼が移ったように思われる。
 丙種は、第2期以降、1期につき200名から600名の練習生を採用し、昭和18年3月31日入隊の第17期まで続いた。

 丙種が創設された時期の豫科練習生の修業期間は以下の通り。
  甲飛 1年6ヶ月
  乙飛 2年6ヶ月
  丙飛    6ヶ月(すぐに3ヶ月に短縮)

 豫科練教程の航空隊は、昭和16年11月の「岩国空」の開隊を皮切りに、三重空、鹿児島空、美保空、松山空と続々と開設される。甲飛も9期以降倍増、13期に至っては27988名を採用、実に12期の8.5倍の採用となる。しかし、13期生の採用は、前期が昭和18年10月1日付(土浦、三重、鹿児島、松山、美保空)、後期が同年12月1日付(土浦、三重、松山、奈良空)である。もはや時既に遅しの感は拭い得ない。
 そして、甲飛10期の航空特攻を皮切りに「特別攻撃」が始まってゆくのである。

 昭和16年4月1日、丙種第17期(最後の丙飛)が岩国空に入隊した翌日、丙種は廃止され、従来の丙種及び搭乗整備員に相当する者を、乙種の2次試験合格者の中から採用することとして、「乙種(特)飛行豫科練習生」の制度が創設された。いわゆる特乙である。
 特乙は、乙種の2次試験合格者で年齢17歳以上の者を採用し、新兵教育(つまり、海兵団で行う新兵に対する基礎教育)及び丙種に準ずる教育を実施し、操縦員、偵察員、射撃員(大型機の搭乗整備員を飛行兵に求めた)を養成することとした。
 特乙では、中期(新兵教育終期)に、操縦、偵察、射撃整備の専修別を詮衡し、操縦及び偵察専修者は豫科教程修業後、10ヶ月ないし1年の飛行練習生の教育を受けさせ、射撃整備専修者は、相模野空(整備練習航空隊)で、普通科飛行機整備術練習生(特)として6ヶ月の教育及び更に2ヶ月間の特修飛行機整備術の教育を受け、場合によって、大型機教育練習航空隊において、2ヶ月間の空戦術教育を実施することがある、と規定されていた。
 計画では、特乙で飛行練習生に採用する者は、昭和18年に約2600名、昭和19年に3200名で、20年以降は搭乗整備員(射撃整備専修者)のみとして、乙種に合流させる予定であった。

 特乙が創設された時期の修業期間は以下の通り。
  甲飛 1年6ヶ月
  乙飛 2年6ヶ月
  特乙    6ヶ月
 ただし、戦局の逼迫によって実際はもっと短縮教育で卒業していっていた。

 昭和19年に甲種の志願規定が改正され、中学3年在学中でも志願できることとなり、学歴基準が乙種と変わらなくなった為、乙飛を廃止し、豫科練習生は甲飛一本となった。
 このため、乙飛は第24期生で募集停止(昭和19年12月1日入隊、以降20年6月15日入隊まで10次にわたり入隊)、特乙は第10期生で募集停止(昭和19年10月1日入隊)された。
 しかし、甲飛も、第16期生でその幕を閉じる。第16期生は、昭和20年4月1日入隊から、4月15日、4月25日、5月15日、6月1日、6月15日、6月25日、7月15日、7月25日、8月15日と10次にわたり入隊したが、満足な教育が受けられるわけがなく、また、海軍も以前のような教育が出来るわけもなく、なかには6月15日宝塚空入隊の練習生のように淡路島要塞に派遣途中に阿那賀事件に遭遇、機帆船で鳴門から淡路へ渡る海峡の上で米軍機による機銃掃射を受けて79名の練習生がなぶり殺しにあうという悲惨な事件に遭遇している。時に昭和20年8月2日のことであった。

 昭和20年8月15日、敗戦。この日、宝塚空に386名の甲飛16期生が入隊したという記録があるが、彼らはいったいどんな気持ちでこの日をおえたのであろうか。