加賀雷撃隊第45小隊第3番機
加賀雷撃隊第45小隊第3番機(機長 植田米太郎一等飛行兵曹 偵察員)は、40機を数える雷撃隊の28番目であり、12機の加賀雷撃隊の最後尾であった。
操縦員は、甲飛第4期出身の長井泉二飛曹。ほんの2ヶ月前に、実用機教程の延長教育を卒業して、加賀に着任したばかりだった。
偵察員は、機長である植田米太郎一飛曹。乙飛第6期出身、軍歴7年。支那事変に従軍し、南支における援蒋ルート破壊作戦において陸偵の偵察員として活躍し、交戦被弾の上、名誉の負傷を遂げた歴戦の搭乗員であった。
電信員は、偵察練習生第53期出身の武田友治一飛。海兵団、通信学校を経て偵察練習生となった潮っ気たっぷりの若者である。
彼らは「日米開戦の劈頭」を飾る「布哇作戦」で、その一番槍をつとめるのである。たとえそれが「列機の列機」であっても、彼らの士気は高揚し、「戦艦イッパイ轟沈」の意気に燃えていただろう。
「生死は関係ない」と言っていた植田一飛曹にしても、この日のあるを予期して書いていただろう日記に、父母・祖父母の思い出と感謝の念を書きつづっていた。
初陣を飾る若武者、長井二飛曹は、父母祖母宛の遺書を艦に遺していた。「弟は海軍に入れてくれ。ただし、自分のような甲飛ではなく、正規士官になれる、将来提督となれるようにしてやってくれ」という意味のことを書き残していた。「金銭貸借なし。婦女子の関係なし」何も後顧に憂いはないのだと長井二飛曹は操縦桿を握る。
彼ら、加賀雷撃隊第45小隊第3番機の最期は諸説あって定かではない。ある者は、射点につく直前に被弾し、魚雷を撃ったが馳走せず、機も海中に没した、という。ある者は、ネヴァダに雷撃を敢行し、見事命中、右旋回をする最中に駆逐艦やフォード島の機銃陣地からの逆さに降る豪雨の如き機銃掃射にやられ、急上昇し、翻って海中に没した、という。
彼らの最期の、その真相は今はわからない。あの真珠湾のどこに没したのか、墜落地点もわからない。
ただ、「死んだ」という事実だけが残っているだけだ。
厚生労働省に残る履歴書に認定された戦死状況
昭和16年12月8日 ハワイ作戦従事中、敵弾を受け、敵地に突入、戦死。
操縦員 長 井 泉 二等飛行兵曹 (甲飛 4期)
熊本県下益城郡中山村出身。
熊本県立御舟中学4年終了。
昭和14年 4月 1日 第4期甲種飛行豫科練習生、霞ヶ浦航空隊入隊、四等航空兵。
昭和14年 5月 1日 三等航空兵。
昭和14年 5月16日 二等航空兵。
昭和14年 6月 1日 一等航空兵。
昭和15年 9月30日 豫科教程卒業。飛行練習生(操縦専修)。
筑波空若しくは谷田部空。
昭和15年11月 1日 三等飛行兵曹。
昭和16年 3月 実用機教程(延長教育)。
大村空若しくは宇佐空。
昭和16年 9月30日 軍艦加賀乗組。
昭和16年11月 1日 二等飛行兵曹。

昭和16年12月 8日 海軍飛行兵曹長
功五級 勲七等
偵察員 植 田 米太郎 一等飛行兵曹 (乙飛 6期)
徳島県那賀郡坂野村出身。
昭和10年 6月 1日 第6期海軍豫科練習生、横須賀空入隊、四等航空兵。
昭和10年11月 1日 三等航空兵。
昭和11年 5月 1日 二等航空兵。
昭和13年 1月10日 豫科教程卒業、飛行練習生(偵察専修)、横須賀空、一等航空兵。
昭和13年 9月20日 飛練卒業、延長教育、館山空。
昭和13年12月19日 佐世保空。
昭和14年 5月 1日 海軍三等航空兵曹。
昭和14年 6月 6日 横須賀空。
昭和14年 7月25日 第14海軍航空隊(海南島)。
昭和14年11月15日 第15海軍航空隊(海南島)。
昭和15年 5月 1日 海軍二等航空兵曹。
昭和15年 5月10日 佐世保空。
昭和16年 4月18日 軍艦加賀乗組。
昭和16年 5月 1日 海軍一等航空兵曹。
昭和16年 6月 1日 海軍一等飛行兵曹(航空から飛行に呼称変更)。

昭和16年12月 8日 海軍飛行特務少尉
功五級 勲六等 正八位
電信員 武 田 友 治 一等飛行兵 (偵練53期)
富山県婦負郡杉原村出身。
昭和14年 5月 1日 海軍志願兵(偵察練習生)、呉海兵団入団、海軍四等航空兵。
昭和14年12月 1日 舞鶴鎮守府再開により、舞鶴海兵団に転籍。
海軍通信学校通信術普通科練習生
艦務実習 を経て、
昭和15年10月 1日 第53期偵察練習生、鈴鹿空。
昭和15年11月 1日 二等航空兵。

昭和16年12月 8日 海軍二等飛行兵曹
功六級 勲八等
植田一飛曹の遺品の中に「遺書」と記された封筒があった。
中には白紙の便箋がただ一枚入っていた。
12月8日の夜、「勝った、勝った」と沸き立つ艦内で、搭乗員たちは未帰還となった搭乗員、彼らの戦友の「お通夜」を行ったという。加賀では、未帰還機15機(艦戦4機、艦爆6機、艦攻5機)、未帰還搭乗員31名を出していた。
主のいなくなったベッドを見ると、生還した搭乗員は、ただ「勝った、勝った」と祝勝する気持ちにはならず、戦友を失った寂しさが募ったのだという。
今でも、当時雷撃隊にいた搭乗員たちは、目を潤ませ、言葉を詰まらせながら、一人ひとりの搭乗員の名をあげて「あいつはいい男だった。いい男が死んでしまった」と語る。彼ら搭乗員にとっては、その夜は「友を失った夜」だった。
長井兵曹、武田一飛の経歴については、現在のところ、詳細が判明していない。