海鷲の墓碑銘
それぞれの墓碑銘
「豫科練之碑」

予科練戦没者慰霊祭にて(平成十四年十一月二日)
功五級 勲七等 海軍飛行兵曹長 長井泉 墓所


昭和十六年十二月八日 戦死 行年 二十一歳
熊本県中央町の長井家の墓所。長井飛曹長の碑文は牧野四郎陸軍中将によるもの。
功五級 勲六等 海軍飛行特務少尉 植田米太郎 墓所


昭和十年六月第六期海軍飛行予科練習生トシテ横須賀海軍航空隊ニ入隊
昭和十四年八月陸海軍共同海南島攻略作戦ニ於テ武勲ヲ樹テ感状ヲ賜フ
昭和十六年艦上攻撃機長トシテ軍艦加賀ニ乗組
同年十二月八日
操縦員 故 海軍飛行兵曹長 長井泉
電信員 故 海軍二等飛行兵曹 武田友治 ト共ニ
真珠湾作戦ニ参加シテ
壮烈ナル自爆ヲ遂ゲ
夫々二階級進級 軍神トシテ仰ガル
行年二十三才
功六級 勲八等 海軍二等飛行兵曹 武田友治 慰霊碑


上記の写真は富山県八尾町の武田家跡に残る慰霊碑(忠魂碑)。
写真提供:幸兵衛様
取材メモ(先任搭乗員)
植田米太郎海軍飛行特務少尉の墓碑銘は、彼の父である市太郎が、植田少尉の生前の言葉、あるいは遺品や遺族間の交流から起こしたものであると推測される。
そのため、一部事実と異なる箇所がある。これはしかし、当然のことであり、国民が「様々な事実」を知ったのは戦後のことである。余談であるが、小説「少年H」のように子どもが疑問を感じたり、事実を知っているようなことはあり得なかった。哀しいかな「戦争の頃」を振り返った作品には、戦後明らかになった事実を織り込んだ「後知恵」が多く見られる。
植田少尉が海南島にいたのは事実である。植田少尉は当時「神風型偵察機」と称された九八式陸上偵察機の偵察員として、海上封鎖作戦、桂林爆撃、昆明爆撃、ビルマ公路破壊作戦等の南支における「援蒋ルート破壊作戦」や都市・飛行場爆撃作戦での偵察任務に従事していた。昭和十四年十一月には広西省柳州の柳州飛行場攻撃作戦の事前偵察において、中国空軍機と空中戦となり、重傷を負っている。なお、この時の行動は「殊勲乙」と認定され、のちの支那事変従軍生存者論功行賞や戦死時の叙勲に関与している。
植田少尉は、加賀艦攻隊では珍しい「実戦経験者」であったという。
ハワイ作戦は巷間「ベテラン搭乗員によって行われた」と伝えられているが、実際は若年搭乗員も多く、長井兵曹長のように実施部隊(加賀)に配属されてわずか二ヶ月あまり(甲飛四期)、あるいは約半年(甲飛三期)という搭乗員も数多くいたのである。
加賀雷撃隊第45小隊第3番機の墜落地点 真珠湾内地図
