艦長最後の言葉


ここは軍艦の艦長の最後の言葉をご紹介いたします。
司令官の言葉も含みます。
多くの場合副長に手帳などを渡したものが残っていますが、
電文も掲載しています。
涙してください。

戦艦「武蔵」猪口艦長 から 副長加藤大佐へ

「ついに不徳のため、海軍はもとより全国民に絶大な期待をかけられたる本艦を失うこと、誠に申し訳なし。
ただ本海戦において、他の諸艦に被害ほとんどなかりしことは、まことにうれしく、なんとなく被害担任艦となりたる感ありて、この点いくぶん慰めとなる。
大口径砲が最初にその方位盤を使用不能にされたことは大打撃なりき。
本日の致命傷は、魚雷命中にありたり。
いったん回頭しているとなかなか艦が自由にならぬこと申すまでもなし。
それでも5回以上は回避したり。
機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。
命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。
敵の攻撃は、なかなか粘り強し。具合がわるければ、態勢がよくなるまで待つもの相当多し。
最後までがんばりとおすつもりなるも、今のところだめらしい。
一八五五。

暗いので、思ったことを書きたいが意にまかせず。
悪いところは、全部小官が責任を負うべきものなることは当然であり、まことにあいすまず。
本日も相当多数の戦死者を出したり。
これらの英霊をなぐさめてやりたし。
今までのご愛顧に対しては心からお礼を申す。
私ほどめぐまれたものはないと、平素よりつねに感謝にみちみちいたり。
はじめは相当ざわつきたるも、夜にはいりてみな静かになり、仕事もよく運びだした。
今機関室より、総員士気旺盛を報告しきたれり。
一九○五。」


戦艦「比叡」西田艦長の手記

11月20日、大和、愛宕にて

『―――12日の夜戦及び13日の総員退去に至るまでの情況は、第11戦隊司令官より、すでに報告せられた通りである。艦長として、戦闘指導適切を欠き、艦に重大なる損傷を受け、応急その効を奏するを得ずして、帝国海軍作戦上最重要なる任務を有し、且今日まで各種の光栄ある任務に服したる陛下の御艦比叡を、連合艦隊司令長官閣下の御訓示に背き、艦を見棄てついにこれを沈没に至らしめた。
また、忠勇なる多数の部下将兵を徒死せしめたその罪は、死を以ってするも、償い得ず、ただ恐懼に堪えざるものなり。

「比叡乗組員の収容と処分についての所見」

@ 10時35分「乗員ヲ収容シ処分ス」
上命令を受け、あまりの意外を感じ、司令官のご意志いずれにあるやを知るに苦しめり。当時の状況は、早朝より反復雷爆撃を受けるも、魚雷一本も命中せず、爆弾は二、三発命中するも被害いうに足らず。缶室進水せるものありしが、排水使用の見込みあり、機械また完全にして、ただ問題は舵機室の浸水のみ。
これを調査した結果、下甲板第18区被弾浸水により、通風筒及び通風弁破損し、舵機室に浸水せしこと判明。直接舵機室被弾によるものにあらざること、おおむね確実なり。したがって、極力下甲板第18区の遮防作業一時成功せるも、排水中再び失敗したるをもって、さらに第3回作業を下令せしところにして、応急及び敵機撃攘とその回避のほかに余念なき時に、上の命令を受け、実際あまりの意外さに、ただおどろけり。
小官このとき「乗員収容を見合わされたし」との信号発信せんとするも、咄嗟に適当なる文案浮かばず、また、信号の方法に困惑し、そのままとせり。
この受信を信号(文字不明)夜戦艦橋より怒鳴りしため、耳に敏感な乗員はこれを知り、みずから艦内一部に伝播せり。
しかし、小官は、遮防成功が第一と考え厳命を下す。なお、遮防の見込みつくまでの時間の余裕を得るつもりにて、駆逐艦照月を曳航の件再考ありたき旨信号す。

A「退去準備ヨケレバ知ラセ」
再び司令官より命令あり。
GF司令長官(山本長官)御訓示の次第もあり、本艦の状況はまだ退去を考えるごとき状態にあらず。極力応急に努めたきにつき、再考ありたしとの旨一筆し、第10分隊長をして雪風に持参せしめんとす。
B「総員退去セヨ」
司令官より三度目の命あり、各艦より短艇来る。とりあえず御真影のみ奉安することとし、その他の書類など内密に準備すべきを副長に命ず。
第6分隊長小倉益敏大尉を艦橋に呼び、司令官命令による艦長の苦衷を伝えるため、雪風に使者として行くべきを命ず。
その要旨は「第3回遮防作業実施中にして、あらたに作成せし防水要具おおむね完成し、これが成功せば舵機室排水の見込み十分あり、一時間ぐらいになんとか見込みつく見通しにて、それまで総員退去命令は、ご猶予ありたし」ということであった。
さきに第11分隊長に託したる一筆は、第6分隊長の雪風に赴く際の艇指揮者に、これを携行せしむ。
第6分隊長、間もなく帰艦し、 「一時間で見込みがつくなら、全力を尽くしてやってみることである。しかし、見込みがなくなったときは、駆逐艦の曳航は不可能になったと思え」との司令官の言を伝えり。
朝方よりの雷爆撃の回避は、艦長、航海長の技量にあらず。本艦の自然の回避にして、艦長、航海長はたんに速力を令したにすぎず、それにて十分回避の目的を達しあるため、大丈夫、魚雷命中などなしと思わしめたり。
なお、魚雷、爆弾が何発命中しようと、これがため比叡が沈没することはあり得ず、もし最悪の場合、沈没の気配濃厚になってからでも、総員退去は遅くないと考え、小官としては最後を共にするまでのことと、至極平静な考えであった。
かかるとき、突然思いもよらぬ司令官の命令@が来たので、まったく面食らい、どう考えても信号での意見具申はできないと思った。そのうちAの命令が再び届いた。
「なあに、最後まで頑張るのだ」 と固い決意でいたのであるが、そうしたことを思考中にも、司令官の命令を無視し、違反しているような気がしてきた。このため若干平静を欠き、判断にも影響を及ぼすようになった。

B の命令が来るに及んで、一層自己の置かれた立場が、苦しく感じられてきた。しかしながら、比叡を預かっているのは艦長である小官である。ゆえに、自分の最善と思うことを行うべきだと考え直し、第6分隊長を派遣することを決意したのである。
しかし、やはり内心、なんとなく司令官に楯ついているように思えてきた。二度ならず三度までも命令を受けながら、これに違反していると言う考えが交錯するに至った。
これは、比叡護衛の警戒駆逐艦に、敵機の命中弾や至近弾がしきりに落下したこともあり、相済まぬ、という気持ちにさせられたことが、多分にあったのも事実である。
頑として動かなかった司令塔の天蓋からおり、後甲板に向かったことも、現場の部下を激励するためであったが、多少焦慮した結果であり、艦長としてもっとも大切な、操艦、敵機撃攘回避などを、おろそかにしたものであったと悔いている。
この間、爆撃を受け回避せざりしため、命中弾3発を被ったのである。
「遮防成功ス、タダイマヨリ排水ヲ始ム、浸水多量ニツキ、排水ハ長時間ヲ要スル見込ミ。状況ハ刻々報告ス」
遮防作業の終了報告を受けたとき、ただちに司令部に発信し、これで比叡を必ず救ってかえれると、愁眉をひらいた明るい気持ちで、再び夜戦艦橋に移動せり。

12時20分 ―――
運用長大西中佐来りて報告あり。
「排水始めたるときは快調に進みしが、二段ぐらい引いてからは、排水はにわかにおとろえ、いささかも進捗せず」と ―――。思うに漏水個所のあるやもしれずとの疑いを強くする。

12時25分 ―――
敵爆撃機、雷撃機十数機来襲せり。「前進一杯」を命じたるも、実際は前進原速を令するのみ。これは夜戦艦橋と司令塔天蓋との連絡不良のためなり。これがため、前部揚錨機室右舷及び、右舷機械室前部に魚雷各一本命中、爆弾飛行甲板に命中す。
小官、夜戦艦橋にありしため、機械に上の通り誤りありたるほか、防御砲火の指揮も適切ならず、右副砲の指揮官さきに戦死せるためか、砲火の威力乏しく見えたり。
舵機室の排水の見込み、ついに立たず、右舷機使用不能、機械をもってする操艦まったく不能となる。艦がまだまだ敵機の雷爆撃に耐え得ることには自信あるも、司令官に猶予を乞いたる時間もすでに経過し、艦の状態は当時より一層不良となれり。かくなれば、いまは司令官の命に従うほかなし。自らは艦と運命を共にし、乗員を退去せしむべしと考えたり。
われひとりのみ艦に残らんとしても、部下が残させてくれぬのは当然で、あまりにも浅墓な考えなりしを、悔ゆるも及ばず。
御下賜品と勲章のみは遺品としたく、航海士に託して、持ち出させたり。
その後司令官より、「艦長に話したきことあり、ただちに雪風に来たれ」との伝言あり。退艦は最後にするも、一切は司令官に一任するほか詮無し。
退艦の途中、2回空襲あり、一回は友軍艦攻上空に来たり、これを攻撃す。
雪風に収容せられたる後、GFより「比叡処分を待て」の命あり。あれば、ただちに比叡に帰艦すべきことを申し出しが、これは許されず、ついにそのままとなれり。
憶うに、あの程度の雷爆撃ならば、比叡は十分に耐え得て、決して沈没するものにあらずと、今も固く信ずるものなり。
にもかかわらず、これを見棄てて、沈没せしめたるを思うとき、ただ、痛恨きわまりなく、上陛下に対し、そして、艦上に倒れし戦友諸兄に対し、死をもってするも償い得ざる大罪を犯し、まことに申し訳なく、ただ恐懼に堪えざるものなり』


空母「飛龍」にて山口多聞少将から第十駆逐隊司令阿部大佐へ

ミッドウエー海戦にて 昭和17年6月6日 0510

「阿部大佐、この戦争はあと2,3年は非常な激戦の形で続くと私は思う。
その間君も私や加来艦長と同じ立場になるかも知れない。
その時、一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は一将にとって死にまさるものであることが分かるだろう。
敗勢が己の不徳によることなく、たとえ渾身の善戦をなして悔いることがなくてもだ。
古来海将にとって艦とはそのようなものではないか
君たちが駆逐艦へ退去後、魚雷をこの「飛龍」へ射ち込んでほしい。
わたしがこの世に求める最後の無心、介錯である。」


大西瀧治郎中将辞世の句 1945年8月16日
この句を読んだ後、割腹自決をはかった

「これでよし百万年の仮寝かな」


中部太平洋方面艦隊司令長官 南雲忠一中将 サイパン島よりの決別文

「今や止まるも死、進むも死、生死須くその時を得て帝国男児の真骨頂あり、今米軍に 一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす…茲に将兵と共に聖寿の 無窮、皇国のいやさか弥栄を祈念すへく敵をもと索めて発進す 続け」


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